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廊下は一時、しんと静まり返った。 SPに置いてきぼりをくった山寺総理は、エアロープにがんじがらめにされた身体を動かすことも忘れ、惚けたように廊下の彼方に目をやっていた。 萠黄もシュウも、ハジメや清香らも、誰もが意外な展開についていけず、その場に立ち尽くしている。 そんな彼らのあいだを縫って、炎少年が萠黄の横にやって来た。 「なあ、何が起こったんだ? 今の連中は誰?」 疑問に思うのも当然だ。たったいま眼前に展開した出来事を、曲がりなりにも把握しているのは、心の声を聴き取ることのできた萠黄だけだろう。その萠黄にもSPが逃げた理由は見当がつかない。 「あのね……」 萠黄は説明しようとして口をつぐんだ。人の心が読める話はすべきでないと思ったからだ。そんな能力を身につけたことが知られたら、いくらリアル同士でも気味悪がられるかもしれない。 炎少年は、言葉を切った萠黄を怪訝そうに見上げた。そんな彼を突き飛ばすように、太い手が伸びてきた。 「すぐに着ているものを脱げ!」 シュウだ。萠黄の両袖をつかんで真上に引っ張り上げようとする。反射的に萠黄は悲鳴を上げた。 「コラ、あんたナニしてんだ!」 驚いた久保田が飛んできた。シュウは片足を上げて、近づく腹を蹴飛ばした。久保田はたまらず床に転がった。 「説明は後だ。他のリアルたち、お前らも脱げ。急がないと爆発する!」 爆発という言葉は、たちまち皆を騒然とさせた。 萠黄は右手だけを使って、むんの忘れ形見のTシャツを上半身から剥ぎ取った。下は汚れのしみ込んだブラジャーだけである。 「シュウさん、どうなったら爆発するの?」 「こいつは対象物に貼り付くと、すぐに風化し始める。その過程で摩擦熱が高まり、数分ないし十分ほどで爆発する。その規模は、たったひとつで半径十メートルにいる人間を確実に殺傷できる」 シュウが早口で述べ立てる。 萠黄は炎少年に飛びつくと、彼のシャツを力づくで脱がせた。ハジメもあわてて脱いだ。ある程度事態が飲み込めたらしい。萠黄はそれもひったくる。動けない伊里江は腕を上げるのも困難で、シュウは取り出したナイフで伊里江のTシャツを縦に切り裂いた。 清香だけが残った。彼女は頑強に抵抗した。 「シールの爆弾? 小さいんでしょ? そこだけ切り取ればいいじゃない」 「そんな悠長なことはしてられん。それに切り抜こうとして、手許が狂って爆弾に触れてみろ。摩擦でアッという間にドカンだ」 シュウは目を怒らせて清香に迫る。知らない者が見ればまるで変態行為だ。雛田がやめろと叫びながら清香の前に出たが、シュウは片手一本で雛田を廊下の隅に放り投げた。 「清香さん、お願い。時間がないねん」 萠黄が懇願した。清香はそれを見ると、しぶしぶTシャツを脱いだ。ヴァーチャルの男たちが途端にどよめいた。彼らは事態を全く把握していない。清香はもちろんブラをしていたが。 萠黄は最後の一枚を清香から回収すると、震える手で床の上に投げ出した。 (もう何分経った?) 緊張に頭がカッとなる。萠黄は集めたTシャツを強力なエアシールドでくるんでしまおうと考えていた。こんな狭い廊下で爆風を回避するにはそれしかない。 集中力を高める。 じっと床の上を睨み、大きな球体をイメージする。 風もない廊下で、空気がうねり始めた。 そのとき、一枚のTシャツの袖に貼られたシールから立ちのぼる煙を見たような気がした。 ──時間がない。 脈が速まる。心臓のほうが先に破裂してしまいそうだ。 冷や汗が瞼を伝い落ち、集中が削がれる。力の焦点がぼやける。頭の奥に痛みが走る。 ──疲れてるんや。もう何時間、緊張し続けてんのか。 球体がぐにゃりとひしゃげた。 (くそっ、うまいこといかへん) リアルといえど食事も睡眠も必要だ。それらをここ数日というもの、著しく欠いている。萠黄はうすうす勘づいていた。この半日、手足に負った傷が治りにくくなっていることに。 (お腹空いた……横になってぐっすり眠りたい……) すると、こんな時にもかかわらず睡魔が襲ってきた。 身体がぐらりと傾いた。片腕がないとバランスがうまくとれない。思わず力んで足を踏ん張る。 その足が床に落ちた汗で滑った。 (しもたっ) 天井が視野いっぱいに広がった。肩が床にぶつかる衝撃に備えて縮まる。 どすん。萠黄の両肩を柔らかい手が受け止めた。清香だった。 「手伝うわ」 萠黄を支える腕から、リアルパワーが心地よく伝わってくる。すると続いて左右から同じセリフがステレオで聞こえてきた。 「俺も」 ハジメと炎少年。ふたりとも萠黄の肩に手を置いた。 (何、これ? ス──スゴい!) 萠黄の身体に三人のリアルパワーが流れ込んでくる。 ひとりのパワーが小さな滝だとすると、四人の力が合わさったそれは、まるで大河の奔流だった。 身体を立て直し、再び気持ちを集中させる。 気がつくと球体は最前とは違い、分厚い空気の鎧をまとっていた。さすがに四人分のパワーが重なると圧巻である。透明なはずなのに、丸い輪郭が見えるようだった。 ふいに球体の中が白く濁り、大きさが倍ほどに膨らんだ。同時にズンという音がして床や壁が激しく揺れた。 シール爆弾がついに爆発したのだ。 (あんなちっこいものが……) 少し前までどっしりとのしかかっていた睡魔や疲労が、すっかり雲散霧消していた。それも三人のパワーのおかげかもしれない。萠黄は感謝の目で清香たちを見つめた。 「いったい全体、何がどうなったんだい?」 自分の上着を清香に着せかけながら、雛田は誰にともなくつぶやいた。 廊下にはまだ爆発の余韻が残っている。粉々になったTシャツの破片がいくつも宙を舞っていた。 「総理の罠です」答えたのは萠黄だった。「味方のような顔でわたしらを油断させて、こっそり爆弾を貼り付けたんですよ」 「てめーっ」 ハジメは怒りに駆られ、床に倒れたままの山寺の腹を蹴り上げた。ぐふっと声にならない声を出して山寺は真っ赤な砂を吐いた。 「どういうこと?」清香が萠黄に顔を寄せる。「まさか、総理が言ってたことって、全部ウソ?」 萠黄が頷く。 「そんな……どうしてそう言い切れるの?」 萠黄は返答できなかった。心を読み取ったとは言えなかった。 知らずにシュウが助け舟を出した。 「当人に訊いてみればいいさ。まあ訊かなくても、シール爆弾を使ってリアルを一気に抹殺しようとしたんだ。全てウソだったと自ら証明してるようなもんだと俺は思うがね」 清香は息を飲んだ。納得したらしい。 「天下の宰相がたったひとり徒手空拳で乗り込んできた。それだけでも相手のガードを下げさせるには十分だ。その上、思わず信じたくなるような、すがりたくなるような甘言を並べていった。リアルたちがありもしない未来に目を遠くしたところで、用意してきたシール爆弾を服の上からそっと貼り付けた。まさか総理自身がそんなことをするとは誰も想像しまい。首尾は上々、総理は無事に帰還する筋書きだった──ところが、総理も政府もリアルを見くびり過ぎていた。リアルの勘を、リアルの視力を」 炎少年が萠黄の前に立って、彼女を眩しげに見上げた。 『やっぱ、萠黄さんって、俺らとは格が違うな。ちぇっ、俺が子供じゃなけりゃ、カノジョにしてやんのに』 萠黄は苦笑しそうになるのを必死にこらえた。 「いわゆる、策士策に溺れる、か」 ハジメは右足で山寺の背中を踏みつけた。山寺はすでに観念したらしく、腹這いになったまま、じっとこちらを見ている。 「何だよ」 山寺は床に付けた顎を斜めにして、一同の顔をざっと眺め渡し、その口を開いた。 「言われたとおりだ。私は君たちを騙した。私の言ったことはすべてでたらめだ」 「じゃあ、リアルがこの世界で生きていける方法ってのも」 「真っ赤なウソだよ」 萠黄は目を閉じた。改めて断言されると、胸にずしりと来る。 とことこと炎少年が山寺に駆け寄った。頭もとに座り込む。 「アンタ、ホンモノか?」 山寺はまばたきした。 「ホンモノだったらおかしいよ。アンタのしたことは、日頃からアンタが口を酸っぱくして嫌ってるテロリストそのものじゃないか」 萠黄はアッと思った。そのとおりだ。 「……しかたがなかったんだ。国民を守るためには。並の人間ではないお前たちが相手とあっては、他に選択できる方法は思いつかなかった」 「都合のいい考えだね。そういうのを二枚舌っていうんじゃなかったっけ」 少年の言葉とは思えない。山寺は煩悶するように眉間に皺を寄せると、額を床にこすりつけて俯いた。 「総理、SPたちはいやにあっさり引き上げていきましたな」炎少年の後ろからシュウが言った。「奴ら、救いを求めるあなたを助けようともしなかった。あなたにとっては明らかに想定外だったようだが──。どうやらあのSPたち、アメリカに鼻薬を嗅がされましたな。それとも元々アメリカが送り込んだスパイだったのかな?」 『……そうなのか。私はアメリカ大統領の口車にまんまと乗せられ、操られただけなのか』 山寺の心の叫びが、歯を軋ませる音と一緒に聞こえてきた。萠黄は聞いているのがつらくなった。 「シール爆弾も、本来は日本にないものだ」シュウは山寺の上体を起こし、身体検査をしながら言葉を続ける。「現在の状況は、総理にとっては想定外でも、米軍には何十と想定されたオプションのひとつでしょうな」 シュウが手を挙げた。その手には小型マイクが握られていた。これまでの会話は全て筒抜けだったのか。 リアルがここに勢揃いしていることも、当然……。 いやそれより、萠黄の緊張の糸をパチンとはじいた言葉があった。シュウの会話の中のひとこと。オプション。 あのSPは確かにそう言った。 山寺はまだハジメのパワーで床に押しつけられている。萠黄は腕のない左肩を右手で押さえながら、山寺の前に膝を折った。 「ねえ、〈想定オプションの2〉って何?」 それまで小刻みに震えていた山寺の肩が止まった。山寺は絶句していた。それでも思いはダイレクトに伝わってきた。 『なぜそれを?〈想定オプションの2〉だと? それは──標的へのピンポイント爆撃じゃないか!』 |
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