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薄く黒い幕が、音もなく天井から降りてきた。もちろんそんなものが実際に現れたわけではない。萠黄の感じた違和感が、何らかの作用で彼女の目にそんな形で投影されているのだ。なぜ確信を持って言えるのかというと、周囲にいる誰ひとり、不審な声を挙げる者がいなかったからだ。 すぐ目と鼻の先で壁に背中を付けて立っているシュウ。その脇にしゃがみ込んでいる清香と雛田。これから向かう予定の階段側で成り行きをじっと見つめている久保田、揣摩、柳瀬、和久井助手。床に寝かされた伊里江とその横に尻をついてじっとこちらを睨んでいる炎少年。ハジメの姿は陰に入っていて見えない。陰を作っているのは、萠黄の肩に両腕をまわした山寺総理。 (むんの声を聞いたのは、自分だけ──) やはり気のせいなのか。その割には、二度も聞いたむんの声は驚くほどクリアだった。 霊魂でも幽霊でも、何でもいい。肝心なのは、むんの声には、何かを伝えようとする切迫したものがあることだった。 (どういうことなんやろ……) 全神経を耳に集中させる。聴き取れるものなら、声の意図を知りたい。聞こえるくる理由を知りたい! 頭の中が冴え冴えとしてきた。集中が高まっている証拠だ。たとえかすかな声でも聞き漏らすまい。そう決心するまでには、総理が抱きついて十秒と経っていなかった。 『あきらめるしかないのね。元の世界に戻れないのは、確定的なのね』 これは清香のつぶやきだ。重なるようにして今度は雛田の声が、 『この子が戻れないのを、僕は喜んでいいのか、悲しむべきなのか』 ン? 萠黄は眉を寄せた。雛田の言葉は、独り言にしては口に出すものではないように思えたからだ。すぐそばに清香がいるというのに。 『どう言ってやればいいんだろう。この世界で一緒に暮らそう。そんなふうに言える自信が僕にあればなあ』 アッと叫びそうになった。 萠黄が聞いているのは、彼らの会話ではない。思考だ。考えていることが伝わってきているのだ。 疑う余地はない。 リアル耳は、今やその能力を遥かに超え、広げたアンテナは相手の心の中をもまさぐっていたのだ。 動揺する気持ちを飲み込んで、他のリアルたちの顔色をうかがう。しかし、どの顔にも特に変わったところは見られない。心を覗いているのは萠黄だけらしい。 頭の冴えがますます深まっていく。彼女はまるで巨大なホールにいる気分がした。何百メートルも向こうで針が落ちた音まで聞こえそうなほど、頭の中は洞窟の中の清水のように澄み渡っていた。 『こんな裏返った国で、俺ら、生きていけるのかよ』 炎少年の思考だ。声色は当人のままなので、聞き間違えようがない。 『フン、願ったりかなったりだ。精一杯、政府を利用させてもらうぜ』 これはハジメ。あくまでも野望を実現させるつもりでいる。 『わたし、萠黄さんよりは美人だと思うけど……』 和久井助手だった。 (アカンやん、こんなん盗み聞きでしかあらへん!) 人に向けるべきではないと、あわててアンテナの向きを変えた時だった。 『シール──』 傾いたアンテナが言葉の断片をひっかけた。山寺総理だった。 (シール?) 状況に不似合いな響きに、行き過ぎたアンテナをひるがえした。 『──よし、これでいい』 再び、山寺の思考を捕捉した。 『あと数人に貼り付ければ……』 山寺は確かにそう言っていた。いや考えていた。 (シール……って、貼るシールのこと?) こんな時に総理は一体何を──。 そこまで思った時、萠黄の背中に電流が走った。 先刻から感じていた違和感──不可思議な黒い幕。それをたどってみると、山寺総理の上で最も色合いが濃くなっている。違和感の発信源は総理だ。 「今後は安心して政府を信頼してくれていい」 山寺はようやく萠黄から身体を離した。その仕草はまるで萠黄から早く遠ざかりたいかのようにもうかがえた。 (シール……貼る……どこへ……?) 山寺の背広の背中を見送る。彼は次に炎少年と伊里江に近づいていた。親しげに両腕を伸ばしながら。 『残るは、このふたりか』 また山寺の心の声が飛んできた。同時に彼の醸し出す闇のような黒さがさらに濃さを増した。 『彼らは我々とは異人種だ。いや、この世界では人間とは呼べない存在だ。だから彼らが消えることに罪悪感など感じる必要は全くない』 山寺の語りかける言葉と、彼の心の声との間に横たわる落差。それは、つまり…… ──嘘! 山寺総理は〈嘘〉をついている! 彼を取り巻く黒い霧のようなものの正体は、それだ! 萠黄は自分の確信を信じた。 しかし──待て。 山寺の嘘はどれだ? まさかすべてが? そして「シール」とは? 見つめる山寺の背中が二、三度揺れた。彼は伊里江と炎少年の肩を気安げに叩いていた。 瞬時、萠黄の目が手の下に吸い込まれた。炎少年の着るTシャツの袖。見覚えのないシミがそこにあった。半径五ミリほどの円形で、シミと呼ぶには薄い色をしており、わずかに膨らんでいる。 すぐに伊里江のほうに目を転じ、彼の袖を見つめる。山寺が叩いた辺り。 あった。円形のシミ。 山寺が叩く振りをしながら貼り付けたというのか。萠黄は急いで自分のTシャツに目を落とす。ない。背中か。右手をまわしてまさぐってみる。 「どうしたの?」 萠黄の様子を不審に思ったらしく、清香が訊ねた。萠黄は答えずにまさぐり続ける。 ──あった。やっぱり。 右手でTシャツの背中を前に引っ張る。目を寄せると、それは確かに丸く小さなシールだった。指先で触れると、表面はざらざらとしている。これでは照明にも光らないし、よほど注意して見ないと、貼られていることには気づかないだろう。 萠黄は爪の先で剥がそうと試みた。 「待て」 制止したのはシュウだった。どきっと心臓が鳴った。彼はつかつかと萠黄に近寄ると、彼女のつまんでいるTシャツの裾に屈み込んだ。手は伸ばさずに、視線をシールに注ぐ。 その顔が息を飲むのが判った。 「いつからこれが?」 シュウの声には切迫した調子がこもっていた。シールと萠黄の顔を怒ったような顔で交互に見つめる。 萠黄は答えるより先に訊ねた。 「何なん、これ」 「爆弾だ。シール爆弾といわれるものだ」 (ば、爆弾!) 戦慄が背中を駆け上った。 シュウは傭兵だ。見立てに間違いはあるまい。 萠黄は逃げるように身体を離したが、シュウは裾をつかんだまま離さない。 「いつからあったんだ?」 いらついた声がトーンを上げ、聞きつけた全員がこちらを向いた。山寺総理も引き攣った首をねじ曲げてシュウを凝視したが、その手許に目をやるとたちまち顔面を硬直させた。 『バカな! 絶対にバレないと──』 「総理なのか?」 シュウの声がかぶさった。いつの間にか萠黄と山寺はにらめっこ状態だった。気づかれないほうがおかしい。 シュウが山寺に向き直るのと、山寺が立ち上がるのが同時だった。 「あー、それでは諸君、私は先に行って地上班に君たちの無事を知らせておくので」 それだけ言って、山寺はそそくさと踵を返した。 「総理、お待ちください」 シュウの呼びかけにも応じない。カツカツと靴音を響かせて、逃げるように廊下を歩いていく。 『目的は達した。これ以上の長居は無用だ。さもないと爆発の巻き添えを食ってしまう』 山寺が撒き散らすように心の声を落としていく。それは萠黄を激しく混乱させた。この状況にどう対処していいのか判断できない。 「逃がすな!」 シュウが叫んだ。しかし他の者たちは山寺の術中にはまったのか、ぽかんとするばかりである。 萠黄はシュウの声に即座に反応し、上げた右手を振り下ろした。 たちまち廊下に風が起こった。山寺はワッと叫んで転倒した。その両足に見えない空気の紐が絡み付く。 「オイ、助けてくれーっ」 山寺が絞り出すような悲鳴を前方に投げかけると、廊下の曲がり角から黒服に身を包んだふたりの男が現れた。どちらも日本人のようだが、日本人離れした体格をしている。そのわりには動きが敏捷だった。総理を警護するSPだろう。 だが、なぜ彼らを残して、山寺ひとりで萠黄たちに近づいたのか? (そうか、わたしらを油断させるためやったんや。パフォーマー総理のやりそうなことや!) 萠黄は唇を噛んだ。 「みんな、伏せろ!」 シュウが前に出て叫んだ。銃を構えている。 SPは当然総理を奪還しようと攻撃を仕掛けてくる。萠黄はそう考え、急いでエアシールドを張るべく、気持ちを集中させた。 ところがSPたちに、そんな素振りは見られず、ひとりが持っていたレシーバーのようなものを口許に持っていき、早口の英語で何ごとかしゃべった。 (なんで英語?) リアル耳はそれを捉えたが、英会話は苦手だ。意味までは判らない。 しかし広げたままのアンテナはしっかりと捉えた。SPの心の声を。 『総理はリアルに捕まりました。想定オプションの2です。──了解、このまま帰投します』 驚いたことに、ふたりのSPは助けを求める山寺を残し、平然と曲がり角の向こうに姿を消した。 |
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