Jamais Vu
-327-

第23章
光道の果て
(14)

 デモンストレーション。
 ハジメの言葉は萠黄に不快な記憶をよみがえらせた。
 柊拓巳。彼は、ふたりのリアルパワーを合わせれば、この世界を支配することだってできると驚くべき野心を語り、萠黄を強引に口説こうとした。
 そして、ハジメ。彼は男たちに甚大な被害を与えた警備ロボットを、圧倒的なパワーでことごとく破壊してみせた。
 持てる力を誇示することで、自らの立場を有利に運ぼうとする。それは柊が思い描いていた未来へと通じるのではないか。
「らしくない」
「あ?」
 立ち去りかけたハジメが、半身だけ振り向いた。蒸し暑い空気の中で、その目は氷のように冷たかった。
「だってそうやん。絶対に元の世界に帰ったるって言うたのはハジメさんやで。くじけそうになったわたしを厳しく励ましてくれたりして、あれこそハジメさんらしいと思ってたのに……。なんで急に考えが変わったん?」
「………」
「さっきのセリフも、とってつけたみたいやった。ホンマに本心から言うてるようには思えへんかった」
 ハジメは眉をわずかに曇らせると、そんな表情を読み取られまいとするように背中を向けた。しかし萠黄はハジメの指がジーンズのポケットの上に触れるのを見逃さなかった。
「おじいさん──」
 ハジメの足が止まった。
「齋藤のおじいさんが亡くなったからやね?」
 自分ではなく、齋藤老人をリアルの世界に返してやろう。彼はそう思っていたのだ。
「関係ない」
 立ち昇る煙のあいだに、恐ろしく長い梯子がはるか上まで伸びている。男たちは何かに追いかけられるように必死で昇っていく。その先にはのしかかるように黒く煤けた天井があった。
 ハジメは暗い空へと飛び上がると、アッという間に小さくなった。
 図星だったようだ。
 ハジメには、会ったときから齋藤にだけは心を開いている空気を感じた。最初は肉親なのかと思っていたが、そうではなく、京都に来る途中で偶然に出会ったのだという。
 ふたりは祖父と孫ほど年が離れていたにもかかわらず、よほど馬が合ったのだろう、他の人間とはほとんど言葉を交わさないハジメが、なぜかいつも齋藤のそばにいた。
 そう言えば、彼は自分を犯罪者だと言った。刑務所かどこかから逃げてきたとも言っていた。
 そんなハジメにとって、元の世界に帰ることは何のメリットもない。おそらく最初から帰るつもりはなかったのではないか。
 しかし問題が残っている。最大の問題が。
 エネルギー発散の方法。
 ハジメは会得したのだろうか?
「萠黄さーん、こっちよー」
 清香の通る声が響いた。ミニチュアの街並のように並ぶ機械の陰から萠黄を呼んでいる。
 考えるのは後にしよう。そう思って歩き出した萠黄の耳が、かさりという音を捉えた。
 騒々しく音を立て続ける機械の中で、それは布を引きずるような、別の種類の音だった。
 萠黄は身構え、音の方向を探った。
 機械群や壊れた警備ロボットが、暑い空気の中でユラユラと揺れている。
 外れた車軸が落ちていた。迷彩服の切れ端が引っかかっており、熱気が吹き付けるたびにはためいている。
 久保田が語った、ここを通過する時に和久井助手がロボットの目を欺くために着せかけた上着のようだ。今の音はおそらくそれだろう。
「萠黄さーん、どうしたー」
 今度は雛田だ。萠黄は急いでその場を離れ、仲間の後を追った。

 萠黄たちのエアクッションによる手助けもあって、ヴァーチャルたちは短時間で長い梯子を昇り切ることができた。煙と湯気の充満する空間を抜け、常温のフロアにたどり着いたヴァーチャルたちの顔には、それでも深い疲労が刻まれていた。
「地上まであとどのくらい?」
 萠黄が訊ねると、揣摩は顔にこびりついた汗とほこりを袖で拭い、
「三階分ほどだ。この廊下を少し行くと小さくて狭い階段がある。それを昇ると出口の排気筒がある」
 そこまで行けば、空が見えるという。
「今ならさしずめ星空だろう。まだ薄明かりが残ってるかな」
 雛田が腕時計を萠黄に示した。
 午後七時十分。
「ここからが問題だな」揣摩が難しい顔をした。「きっと上では、いろんな奴が待ち構えてる」
 清香は顔を強張らせ、自分の両腕を抱いた。
 廊下は床ひとつ隔てた下の空間に比べて、クーラーでも効かせたように涼しかった。萠黄は火照った顔から熱が引いていくのを感じながら、ここまで逃げ延びてきた面々を眺めた。
 生存しているリアルは、萠黄、清香、ハジメ、炎少年、そして伊里江を含めてたったの五人。それでも世界にとっては十分な脅威だろう。服装はボロボロになりながらも、床に寝そべった伊里江を除き、他の者は今のところ元気だ。
 逆に、ヴァーチャルたち。彼らが疲労の頂点に達しているのは覆うべくもなかった。アリーナ下の穴に半数が飲み込まれ、流入した海水に溺れ、それでもここまで生き延びられたのは、わずかに十数人。その中には六道も雛田もいた。血気盛んな若者ほど、警備ロボットの格好の餌食になったようだ。
 死屍累々、とまでは行かなくても、塵ひとつない無彩色の廊下に、汗と煙にまみれた身体を横たえた男たちの姿は、まるでボロ雑巾さながらだった。黒ずんだ顔はどれも、この先一歩も歩けないと主張していた。
「ノコノコ出ていったら、米軍の格好の餌食だな」
 炎少年が大人びた表情で言うと、清香は腕を解き、
「でも約束の期限は、明日の正午でしょう?」
 ハジメがバカかよと返した。
「アメリカがそんな約束、守るわけないだろ」
 そう考えるのが妥当だ。今でも暗視カメラでWIBAを遠巻きに見ているのではないか。いやそれより怖いのは……
「もしも今、米軍がここに押し寄せてきたら」
 言った萠黄は自分の言葉にぞっとした。炎少年がおびえた目で彼女を見上げる。
「──あり得る」
 背後で大儀そうな声が立ち上がった。シュウはオイと手を振って、迷彩服の揣摩と柳瀬を呼んだ。
「斥候に出かける。こんな状況でヤンキーどもに攻め込まれたら抵抗しようもないからな」
「大丈夫ですって」揣摩が沈滞した空気を吹き飛ばすように笑った。「ここは宝井社長しか知らない秘密のルートだから……」
 ふいに揣摩の声が凍りついた。全員が訝しげに彼を見、その視線を追って廊下の先へと首を巡らした。
 黒い人影がひとつ、ちょうど曲がり角から現れたところだった。
 萠黄はその男を知っていた。
 いや、日本人なら誰もがその人物を知っていた。


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