Jamais Vu
-325-

第23章
光道の果て
(12)

 久保田は細めた目を魚のように丸くした。あまりの驚きに声も出ないのだ。
 萠黄にも言葉はなかった。駆け寄った彼女は、体当たりするように久保田の腹に抱きついた。
 壁の内側へとなだれ込んだ男たちの歓声が周囲に充満する。奥に上階へ通じる階段を発見したからだ。
「助かったぁーっ!」
「地上へ出られるぞっ!」
 抱き合うふたりを突き飛ばしながら、彼らは我先にと横をすり抜けていく。久保田は突如現れた男たちの大群にも驚き、あわてて萠黄を抱え上げると、部屋の隅に急いで移動した。
「待てよ、あわてんな」
 押し止めようとする声が怒濤の足音、いや水音にかき消される。
 萠黄はハッとした。その声は揣摩太郎ではないか。顔を向けると、その隣りには柳瀬までいる!
 階段に殺到した者たちは、ひたすら助かりたい一心で、せまい階段の上で押し合いへし合いしている。
 久保田がようやく萠黄に声をかけた。
「どうなってるんだ? この連中は何者だ? この水は一体……そうだ、真佐吉には会ったのかい?」
 萠黄は唾をぐっと飲み込み、気持ちを鎮めてから口を開いた。柳瀬に対して何やら指示を与えた揣摩も駆け寄ってくる。
 久保田が萠黄から手を離した。壁際から和久井がじっと冷たい目線を送っていた。
「真佐吉さんには会えました。けど、彼はすでに死亡していました」
 萠黄は、久保田らと別れてからの出来事をかいつまんで語った。そのひとつひとつが久保田と揣摩をひどく驚かせた。
 中でも仰天させたのは、むんの死だった。
「あのむんさんが……」
 揣摩は唇を噛んで絶句した。久保田も萠黄の着ているTシャツに気づき、ウウとうめくような声を漏らした。と、その目が袖に止まった。
「萠黄さん、その手はどうした……」
 全員の目が萠黄の左肩に注がれる。萠黄は右手で、ない腕の付け根を袖の上から押さえた。
「真崎との戦いで受けた、名誉の負傷だ」
 後ろから入ってきたシュウが代わりに答えた。
 痛いほどの間があった。
 久保田は萠黄の肩に手を置き、いたわりの眼差しで問いかけた。
「痛く──ないのか?」
「うん……少しヒリつくけど、リアルパワーでどうにか庇ってる」
「──そうだ、転送装置」久保田は眼差しをぐっと上げて、「君たちは真佐吉の転送装置で、元の世界に戻るんじゃなかったのか?」
 萠黄は俯いたまま、首を横に振った。
「装置は壊されてしもて」
「………」
 シュウが間に立った。
「彼は見覚えのある隊員だが」と揣摩を顎で指し、「君は確か、萠黄さんの友達じゃないのか?」と久保田に問いかけた。
「ああ、俺は隊員じゃないよ。アンタのお仲間に衣装を借りた」
 久保田は萠黄のつむじに視線を落としたまま、平然と言い返す。
「何だと?」
 不穏な空気に、萠黄はシュウの腕をとった。
「そんなことを言い合ってる時やないよ」とたしなめると、改めて久保田を見上げ、「どうやってここまで来れたの?」
 久保田は説明した。地上で偶然、揣摩らと合流し、這い出してきた真佐吉の手下を倒して、排気筒から侵入したこと。侵入経路は完全な裏ルートで、真佐吉の妨害にも遭うことなく、ここまで無事に降りてこれたこと。しかし最下層までたどりついたものの、壁に阻まれて行き場を失ったこと。その時、壁の向こう側から滝の音とともに人の声が聞こえたので、どこかに突破口はないかと探しているうちに──
「和久井さんが、部屋の隅にあった開閉ボタンを発見してくれたんだ」
 全員が、離れたところに立っていた迷彩服の女性を見た。しかし注目されるのに不慣れな和久井助手はプイと顔を背けた。
「なあ、いつまでグズグズしてんだよ」
 突然の甲高い声。その声は、階段に足を掛けた子供が発したものだった。炎少年だった。
「え、あ、君は確か車椅子の──」
 久保田がつっかえるような声を出すと、
「いちいち驚いてると、ホラ、水に呑まれちまうぜ」
 少年の指摘どおり、今や水位は膝に達しようとしている。
「それもリアルパワーか?」
「そんなとこだろ。さあて、お先に行くぞ」
 少年はさらりと言い、すでに見えなくなった男たちを追って階段を昇り始めた。
「この扉をもう一度閉じましょう」
 雛田が提案した。呼応するように和久井が開閉ボタンを押したが、
「動きません。水に浸ったせいかも」
と抑揚のない言葉を返した。
 シュウがパチンと手を叩いて、一歩足を踏み出した。
「よし。ともあれ君たち別働隊のおかげで我々は活路を見い出せた。感謝する」と久保田らに敬礼し、「みんな、炎君に続こう」
 全員が動き出した。
 しかし萠黄だけは、元来たほうに戻ろうとした。
「どうしたんだ?」と久保田。
「まだモジが──わたしのPAIが残ってんねん」
 萠黄は水を掻き分けて壁のところまで取って返すと、完全に水没した場内を見渡した。もちろん滝はなくなるどころか、かえって勢いを増している。
 水面をこちらへと飛んでくる人影がひとつ。
 ハジメだった。
「何してたん?」
 ハジメはそばに着水すると、黙って手の平を広げた。ひとつかみの白髪の束がそこにあった。
「齋藤ジイさんのだ。──身体は沈めた」
 萠黄は目を伏せて頷いた。
 遺髪をポケットに捩じ込んだハジメを見送ると、萠黄は入れ違いに宙に舞い上がった。
 歩けば数分を要する距離を、わずか数秒で飛び越えた。モジをWIBAに送り込むため、壁のソケットに携帯を差し込んだ場所だ。
 携帯が水面下に没していることはすでに覚悟していた。それでも接続時にリアルパワーでエアカバーをかぶせていたので、十中八九、大丈夫だと考えていた。
 ところが到着すると、予想外の事態が待ち受けていた。
 ソケットのあった辺りの壁が激しく破壊されていたのだ。四角いボードには亀裂が走り、あるいは剥がれ落ちて、一部は焦げたように黒ずんでいた。
「ああぁ──」
 これではとても携帯どころではない。萠黄は全身から力が抜けていった。
 原因はまたしても真崎だった。
 水に飛び込んだ齋藤老人を救おうとした時、真崎が萠黄に対して放ったベージュ色の丸ノコ円盤。萠黄はそれをエア爆弾で撃退したが、あろうことか円盤は携帯の上に落下していたのだ……。
 波間にギザギザに尖った歯が見える。
 萠黄はポケットをジーンズの上から押さえた。そこにはむんの遺品である彼女の携帯があった。しかし接続ソケットがなければ、アンテナの立たない場内で、モジを連れ戻すことはできない。
《もえぎぃ〜》
 か細い声が主人の名を呼んだ。萠黄は両目を強く閉じて、絞り出すような声で答えた。
「ゴメン……連れてってあげられへん」
 目からこぼれた涙が水面に落ちていく。
《しゃーないがな。早よ逃げや》
 PAIは彼女を責めるどころか、早く退散しろと促した。
「許してくれるん?」
《許すも許さんもないやろ。不可抗力なんやから》
「………」
 そう言われても、萠黄は素直に立ち去ることができなかった。コンピュータプログラムとはいえ、いっしょに闘ってくれた盟友なのだ。そんな彼を残していくなんて。
 誰かが背中をトンと押した。振り向くと、ハジメの半開きの目がそこにあった。
「行くぞ」
 彼は強引に萠黄の肘をつかんで引っ張った。
 萠黄は「さよなら」とつぶやくしかなかった。
《元気でなぁ〜》

 ふたりが飛び去ると、場内が幾分暗くなった。モジが逃げる彼らのために、省エネモードに切り換えたのかもしれない。
 水かさはますます増えていく。すでに接続コネクタのあった壁も、破壊の痕とともに見えなくなっていた。
 だから、ゴトリと丸ノコが動いたことに、モジは少しも気づかなかった。


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