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予感は的中した。 滝と滝のあいだにある数メートルの隙間を急いで振り返る。水面から天井へと滑らせた目が、空中にある奇妙な光景を捉えた。 何もないところから水がポタポタと垂れている。ほんのわずかな量だったが、まぎれもなくそれは── 「真崎や!」 萠黄が指さして叫んだのと、水の垂れた辺りが虫眼鏡のように歪むのが同時だった。 透明の怪物が、恐ろしいスピードで滝のあいだをくぐり抜けてきた。 逃げろと叫ぶ暇もない。ヒュンという音とともに、怪物の薄い身体が刃物のように萠黄に襲いかかった。 ドゥンッ。 萠黄と清香は間一髪で左右に逃げた。 萠黄は後ろ一回転で床を蹴ると、壁に突き刺さった真崎の身体に躍りかかった。 右腕に気をためる。そのまま真崎に対してパンチを浴びせた。 ゴスッ。 真崎の横腹(?)に穴が空いた。萠黄の拳はいとも簡単に怪物の薄い身体を貫いたのだ。おそらくはリアルパワーの威力で。 ぐぉぉぉぉぉぉっ。 真崎は咆哮し、身をくねらせながら水辺へと下がっていった。受けたダメージは小さくないようだ。 萠黄は追いかけようとして、前に出した足を止めた。相手の意思が読み取ったのだ。深追いすると、あの紙のような身体で巻き付くつもりなのだと。 追ってこないと知り、真崎はスピードを上げた。水の中にその大きく広い身体を没していく。萠黄のエア爆弾を恐れているのだろう。 (真崎は透明なのを利用して、また同じ戦法で仕掛けてくるはず。今のはたまたま気づいたからよかったものの──) 萠黄は炎少年に顔を向けた。 (でもこのままだと、いずれ観客席は水に飲み込まれてしまう。そうなったら真崎のしたい放題や! かと言って、どうすれば……) 逡巡しているうちに、真崎の姿は完全に水中に消えてしまった。 「大丈夫か?」 シュウが水面を睨みながら駆け寄ってきた。萠黄は床に屈み込んで、真崎が叩き割った痕に手を突っ込んでいる。 「深い」 思った以上に、足の下は何重もの厚い装甲に覆われていることが判った。 (これは無理やな) 裂け目を壁面へとたどる。 「ん?」 萠黄は何かを発見し、そろそろと壁に近づいた。 「これは……」 シュウが萠黄の指さした箇所に顔を近づける。 「それがシステムへの接続ソケットだ。さっきアリーナで繋げたのと同じヤツだ。ここにもあったのか」 「じゃあ、これでまたWIBAを動かすことが──」 「それがそうはいかん。逃げる最中にパソコンがクラッシュしたらしくて」言いながら背中のリュックからパソコンを取り出し、起動ボタンを押す。「やはりダメだ。ウンともスンとも言わん!」 腹立たしげにボディを叩く。その手から黒いコードが落ちた。パソコンと壁ソケットを繋ぐコネクタである。 萠黄は顔を輝かせた。 「シュウさん! 変換アダプタ、持ってる?」 そう言って、萠黄はシュウが答える前にリュックを奪うと、ごめんと叫んで中身を床に撒き散らした。 「これやっ」 萠黄の手が一個のアダプタを取り上げた。 「アダプタなんて、どうするつもりだ。君だって自分のパソコンはなくしたんだろ?」 萠黄はコードをソケットに差し込むと、その反対側に手に持ったアダプタを差し込んだ。 「うまくいくかどうか判らへんけど、コレ」 ポケットから取り出したのは、シュウが先ほど返した携帯だった。萠黄はその基部を開き、アダプタと接続させた。 「モジ!」 すかさずPAIの名を呼ぶ。 《なんでっかー?》 画面の左端に尻尾がチラリと現れた。 「マジメにしなさい、時間がないねん!」 《あっそー》 ごろりと二頭身ゴジラが転がり出た。背びれを下に、地面の上でゆらゆら揺れている。 「モジ、お仕事やで。今すぐWIBAに侵入して!」 《フーン、で、何をしろと?》 「後は侵入できてから指示する。急いで!」 《もぉ〜、人使い、荒いなぁ〜》 大きな口を開けて文句を言ったが、動きは速かった。スッと姿が消えたかと思うと、数秒後に再び現れ、 《簡単に入れたがな。こんなんアホでも侵入できるで》 「判ってる。要はシステムの内部にまで入れるかどうかや」 《そやから、行けるって》 「ホンマに?」 萠黄は念を押すように尋ねた。モジが嘘をつかないことを知りながら。 《カンペキよ》 背びれが力強く震えた。 「よっしゃ! モジ、ゴーや!」萠黄は携帯の画面をエンジェルフォールに向けた。「あそこの蓋を今すぐ閉めて!」 《あいよぉ》 二頭身ゴジラは短い足でジャンプすると、またもや画面の外に消えた。 「なるほど、真崎を水の中に閉じ込めようという魂胆だな!」 「そうです。それしかないと思って」 「しかし、君のPAIにそんなことが?」 「見損なわないでください」萠黄は少しだけ笑顔を見せて、「モジは市販のPAIとは別物です。一からプログラミングして、高い知能を持たせてあります。きっとやってくれるでしょう」 「スゴいな……いや、君がだが」 離れたところにいる男たちは、そんな萠黄の考えも知らず、手に手に拾った物で壁を叩き始めた。床はもう残りわずかだ。彼らの焦りを象徴するように、壁はガンガンと不規則な金属音を立てる。もちろん立ち塞がる壁はビクともしない。 「清香さん、リアルのみんなを集めて」 「判った」 清香も腰を上げた。萠黄の目は携帯画面と滝のあいだを行き来した。いつまた真崎の攻撃があるやもしれない。心の中では、急げ急げと念じていた。 ゴウン。 反応は意外にも早く帰ってきた。その音は盛大に、場内に響き渡った。 男たちがいよいよ終わりだと勘違いして悲鳴を上げた。 齋藤、ハジメ、そして雛田までを引き連れ、戻ってきた清香は開口一番、やったねと叫んだ。 ゴウンゴウンと車輪が転がるような音。水でよく見えないが、まさしくアリーナの蓋が閉まる音だ。水に浸って故障の懸念もあったが、ちゃんと動いたようだ。 「油断しないで」萠黄は注意を促した。「アイツはきっと出てこようとする。その時は──」 ブモォォォォォォ。 水しぶきが花火のように跳ね上がった。真崎だ! 「みんな、力を合わせて水の中に押し込めて!」 「了解だ!」 バネのようにハジメが空中高く飛んだ。萠黄と清香は地上から気を放ち、エア爆弾を見舞った。 ドンッ。 常人には見えなかったが、かつて真崎だった怪物は、空中で紙屑のように折れ曲がると、リアルたちの作った空気の球に押されて水面に落下した。 大きな波が寄せてきた。皆、飲まれまいと、手近なものにしがみつく。 萠黄は一足飛びに波を越え、上空から水中を覗き込んだ。周囲から伸びつつある牙のように尖った装甲板。それらがアリーナ中央で合流すれば、真崎をその下に押し込めることができる。当面の危機は回避できる! ハジメが滑るように萠黄の前に出てきて、 「怪我人の出る幕じゃないよ。休んでな」 「そうはいかへん。わたしの立てた作戦なんやから!」 「つまらん意地、張るなよ」 「あんたこそ」 ふたりは目を皿のようにして真崎の姿を求めた。しかし、その姿はどこにもない。いや見えないだけかもしれないが。 装甲板が閉じるまで、残すところ三分の一。かなりのスピードで動いているはずだが、あまりに巨大なため、恐ろしく緩慢な動きに見えてしまう。 あと四分の一。 五分の一。 すでに観客席の大半を飲み込んだ水面と、その下の装甲板の蓋とのあいだは、約二メートル。 (もしも、めいっぱいに広げた身体を、そこにひそませていたとしたら……) 不安が急激に膨らんだ。 萠黄はたまらず行動を起こした。右手を振って、エア爆弾を眼下の水面に落としたのだ。 ドンッ──ザザザッと水柱が上がる。 考えはハジメにも通じた。彼は身体を回転させると、萠黄以上に威力のあるエア爆弾を立て続けに打ち込んだ。 激しく水面が沸き立つ。 「いないな」 鋭い視線を走らせながら、ハジメが言った。 閉鎖まで、あと少し──。 その時だった。 装甲板の牙のあいだから、猛烈な勢いで細く長い物体が伸びてきた。警戒していた萠黄だったが、体勢を崩してかわすのが精一杯だった。 もちろん真崎である。 (くそっ、やるしかないか!) 萠黄は瞬時に決断した。秘策を実行するのだ。 真崎は蓋が閉じる直前に脱出するつもりだったのだ。その真崎の身体を捉まえ、水底まで引きずり込む。それが萠黄の作戦だった。いわば捨て身の一策。エアスーツに身を固めても、装甲板が閉じてしまえば終わりだ。生きては出られないだろう。 萠黄は勢いをつけると、真崎の伸びた身体に手を伸ばした。 しかし、彼女の手はハジメによって、はたかれた。 「それは俺の役目だ!」 ハジメは両手を広げて、真崎に飛びついた──。 いや、そう思えた時、彼は横合いから出てきた手に頬を殴られていた。意表を突かれたハジメは、あらぬ方向へと飛んでいく。 「死ぬなら、老人が先やがな!」 齋藤だったのだ。 彼は真崎に両手両足でしがみつくと、牙のあいだに、真っ逆さまに落ちていった。 |
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