Jamais Vu
-323-

第23章
光道の果て
(10)

 予感は的中した。
 滝と滝のあいだにある数メートルの隙間を急いで振り返る。水面から天井へと滑らせた目が、空中にある奇妙な光景を捉えた。
 何もないところから水がポタポタと垂れている。ほんのわずかな量だったが、まぎれもなくそれは──
「真崎や!」
 萠黄が指さして叫んだのと、水の垂れた辺りが虫眼鏡のように歪むのが同時だった。
 透明の怪物が、恐ろしいスピードで滝のあいだをくぐり抜けてきた。
 逃げろと叫ぶ暇もない。ヒュンという音とともに、怪物の薄い身体が刃物のように萠黄に襲いかかった。
 ドゥンッ。
 萠黄と清香は間一髪で左右に逃げた。
 萠黄は後ろ一回転で床を蹴ると、壁に突き刺さった真崎の身体に躍りかかった。
 右腕に気をためる。そのまま真崎に対してパンチを浴びせた。
 ゴスッ。
 真崎の横腹(?)に穴が空いた。萠黄の拳はいとも簡単に怪物の薄い身体を貫いたのだ。おそらくはリアルパワーの威力で。
 ぐぉぉぉぉぉぉっ。
 真崎は咆哮し、身をくねらせながら水辺へと下がっていった。受けたダメージは小さくないようだ。
 萠黄は追いかけようとして、前に出した足を止めた。相手の意思が読み取ったのだ。深追いすると、あの紙のような身体で巻き付くつもりなのだと。
 追ってこないと知り、真崎はスピードを上げた。水の中にその大きく広い身体を没していく。萠黄のエア爆弾を恐れているのだろう。
(真崎は透明なのを利用して、また同じ戦法で仕掛けてくるはず。今のはたまたま気づいたからよかったものの──)
 萠黄は炎少年に顔を向けた。
(でもこのままだと、いずれ観客席は水に飲み込まれてしまう。そうなったら真崎のしたい放題や! かと言って、どうすれば……)
 逡巡しているうちに、真崎の姿は完全に水中に消えてしまった。
「大丈夫か?」
 シュウが水面を睨みながら駆け寄ってきた。萠黄は床に屈み込んで、真崎が叩き割った痕に手を突っ込んでいる。
「深い」
 思った以上に、足の下は何重もの厚い装甲に覆われていることが判った。
(これは無理やな)
 裂け目を壁面へとたどる。
「ん?」
 萠黄は何かを発見し、そろそろと壁に近づいた。
「これは……」
 シュウが萠黄の指さした箇所に顔を近づける。
「それがシステムへの接続ソケットだ。さっきアリーナで繋げたのと同じヤツだ。ここにもあったのか」
「じゃあ、これでまたWIBAを動かすことが──」
「それがそうはいかん。逃げる最中にパソコンがクラッシュしたらしくて」言いながら背中のリュックからパソコンを取り出し、起動ボタンを押す。「やはりダメだ。ウンともスンとも言わん!」
 腹立たしげにボディを叩く。その手から黒いコードが落ちた。パソコンと壁ソケットを繋ぐコネクタである。
 萠黄は顔を輝かせた。
「シュウさん! 変換アダプタ、持ってる?」
 そう言って、萠黄はシュウが答える前にリュックを奪うと、ごめんと叫んで中身を床に撒き散らした。
「これやっ」
 萠黄の手が一個のアダプタを取り上げた。
「アダプタなんて、どうするつもりだ。君だって自分のパソコンはなくしたんだろ?」
 萠黄はコードをソケットに差し込むと、その反対側に手に持ったアダプタを差し込んだ。
「うまくいくかどうか判らへんけど、コレ」
 ポケットから取り出したのは、シュウが先ほど返した携帯だった。萠黄はその基部を開き、アダプタと接続させた。
「モジ!」
 すかさずPAIの名を呼ぶ。
《なんでっかー?》
 画面の左端に尻尾がチラリと現れた。
「マジメにしなさい、時間がないねん!」
《あっそー》
 ごろりと二頭身ゴジラが転がり出た。背びれを下に、地面の上でゆらゆら揺れている。
「モジ、お仕事やで。今すぐWIBAに侵入して!」
《フーン、で、何をしろと?》
「後は侵入できてから指示する。急いで!」
《もぉ〜、人使い、荒いなぁ〜》
 大きな口を開けて文句を言ったが、動きは速かった。スッと姿が消えたかと思うと、数秒後に再び現れ、
《簡単に入れたがな。こんなんアホでも侵入できるで》
「判ってる。要はシステムの内部にまで入れるかどうかや」
《そやから、行けるって》
「ホンマに?」
 萠黄は念を押すように尋ねた。モジが嘘をつかないことを知りながら。
《カンペキよ》
 背びれが力強く震えた。
「よっしゃ! モジ、ゴーや!」萠黄は携帯の画面をエンジェルフォールに向けた。「あそこの蓋を今すぐ閉めて!」
《あいよぉ》
 二頭身ゴジラは短い足でジャンプすると、またもや画面の外に消えた。
「なるほど、真崎を水の中に閉じ込めようという魂胆だな!」
「そうです。それしかないと思って」
「しかし、君のPAIにそんなことが?」
「見損なわないでください」萠黄は少しだけ笑顔を見せて、「モジは市販のPAIとは別物です。一からプログラミングして、高い知能を持たせてあります。きっとやってくれるでしょう」
「スゴいな……いや、君がだが」
 離れたところにいる男たちは、そんな萠黄の考えも知らず、手に手に拾った物で壁を叩き始めた。床はもう残りわずかだ。彼らの焦りを象徴するように、壁はガンガンと不規則な金属音を立てる。もちろん立ち塞がる壁はビクともしない。
「清香さん、リアルのみんなを集めて」
「判った」
 清香も腰を上げた。萠黄の目は携帯画面と滝のあいだを行き来した。いつまた真崎の攻撃があるやもしれない。心の中では、急げ急げと念じていた。
 ゴウン。
 反応は意外にも早く帰ってきた。その音は盛大に、場内に響き渡った。
 男たちがいよいよ終わりだと勘違いして悲鳴を上げた。
 齋藤、ハジメ、そして雛田までを引き連れ、戻ってきた清香は開口一番、やったねと叫んだ。
 ゴウンゴウンと車輪が転がるような音。水でよく見えないが、まさしくアリーナの蓋が閉まる音だ。水に浸って故障の懸念もあったが、ちゃんと動いたようだ。
「油断しないで」萠黄は注意を促した。「アイツはきっと出てこようとする。その時は──」
 ブモォォォォォォ。
 水しぶきが花火のように跳ね上がった。真崎だ!
「みんな、力を合わせて水の中に押し込めて!」
「了解だ!」
 バネのようにハジメが空中高く飛んだ。萠黄と清香は地上から気を放ち、エア爆弾を見舞った。
 ドンッ。
 常人には見えなかったが、かつて真崎だった怪物は、空中で紙屑のように折れ曲がると、リアルたちの作った空気の球に押されて水面に落下した。
 大きな波が寄せてきた。皆、飲まれまいと、手近なものにしがみつく。
 萠黄は一足飛びに波を越え、上空から水中を覗き込んだ。周囲から伸びつつある牙のように尖った装甲板。それらがアリーナ中央で合流すれば、真崎をその下に押し込めることができる。当面の危機は回避できる!
 ハジメが滑るように萠黄の前に出てきて、
「怪我人の出る幕じゃないよ。休んでな」
「そうはいかへん。わたしの立てた作戦なんやから!」
「つまらん意地、張るなよ」
「あんたこそ」
 ふたりは目を皿のようにして真崎の姿を求めた。しかし、その姿はどこにもない。いや見えないだけかもしれないが。
 装甲板が閉じるまで、残すところ三分の一。かなりのスピードで動いているはずだが、あまりに巨大なため、恐ろしく緩慢な動きに見えてしまう。
 あと四分の一。
 五分の一。
 すでに観客席の大半を飲み込んだ水面と、その下の装甲板の蓋とのあいだは、約二メートル。
(もしも、めいっぱいに広げた身体を、そこにひそませていたとしたら……)
 不安が急激に膨らんだ。
 萠黄はたまらず行動を起こした。右手を振って、エア爆弾を眼下の水面に落としたのだ。
 ドンッ──ザザザッと水柱が上がる。
 考えはハジメにも通じた。彼は身体を回転させると、萠黄以上に威力のあるエア爆弾を立て続けに打ち込んだ。
 激しく水面が沸き立つ。
「いないな」
 鋭い視線を走らせながら、ハジメが言った。
 閉鎖まで、あと少し──。
 その時だった。
 装甲板の牙のあいだから、猛烈な勢いで細く長い物体が伸びてきた。警戒していた萠黄だったが、体勢を崩してかわすのが精一杯だった。
 もちろん真崎である。
(くそっ、やるしかないか!)
 萠黄は瞬時に決断した。秘策を実行するのだ。
 真崎は蓋が閉じる直前に脱出するつもりだったのだ。その真崎の身体を捉まえ、水底まで引きずり込む。それが萠黄の作戦だった。いわば捨て身の一策。エアスーツに身を固めても、装甲板が閉じてしまえば終わりだ。生きては出られないだろう。
 萠黄は勢いをつけると、真崎の伸びた身体に手を伸ばした。
 しかし、彼女の手はハジメによって、はたかれた。
「それは俺の役目だ!」
 ハジメは両手を広げて、真崎に飛びついた──。
 いや、そう思えた時、彼は横合いから出てきた手に頬を殴られていた。意表を突かれたハジメは、あらぬ方向へと飛んでいく。
「死ぬなら、老人が先やがな!」
 齋藤だったのだ。
 彼は真崎に両手両足でしがみつくと、牙のあいだに、真っ逆さまに落ちていった。


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