Jamais Vu
-322-

第23章
光道の果て
(9)

 萠黄は言葉に詰まった。何か言い返さないと。そう思って唇を開いた時だった。
 ギギギギギ、ミシミシミシ。
 耳の奥を締めつけるような不快音が、全方向サラウンドで鳴り始めた。
〈萠黄は──ガガガ……〉
 むんの声にノイズが重なった。そしてぷつりと途切れてしまった。
 萠黄はハッとして目を開いた。
 ギギギという音はなお続いている。
 しかし萠黄には現実感がなかった。今までのむんとの会話は夢だったのか? それとも、まどろみの中の萠黄の一人芝居……?
 ガクンと場内が揺れた。萠黄は支える腕もないまま倒れ、隣りにいた伊里江を巻き込んで、ふたりはゴロゴロと転がった。
「ご、ごめん」
 壊れた座席にぶつかり、彼らはかろうじて水中への転落を免れた。
「……イタタ」
 伊里江は起き上がることもできないほど、憔悴した顔を萠黄に向けた。萠黄はつい思い浮かんだ質問を口にした。
「ねえ、むんの声が聞こえた?」
「……むんさん? なぜ──」
 伊里江の反応にやはり夢だったかと、萠黄は首を振って肩を落とした。
「……それより」伊里江は動かない身体を必死に立て直そうとした。「ここは危険です。一刻も早く脱出しなければ」
 座席の向こうから、男たちの叫ぶ声が聞こえてくる。今の揺れで水の中に滑り落ちた仲間をすくいあげようとしているのだ。
 萠黄は現実感の伴わない目で、その様子を見守っていた。そばで、ここは長くは保たないと力説する伊里江の声も、どこか遠くのささやきにしか思えなかった。
 ハジメが鋭い一瞥を浴びせて、萠黄の横をすり抜けていく。シュウや雛田らもその後に続く。
 傾きを増した観客席は歩きづらそうだ。それでも彼らは男たちを救うために、水辺へ降りて行こうとしていた。
(偉いなぁ)
 他人事のようにシュウらの背中を見送る。すると、小さな影が萠黄の前に立ちはだかった。
「もえぎさんよー」炎少年は舌足らずな口を突き出しながら話しかけてきた。「なんか、かっこわりーぜ。そんなすがた、みせてくれんなよ」
「炎くん」
「かめらごしにみてたときの、もえぎさんのかつやくはかっこよかったぞ。せいぎのみかたってかんじだった。おれ……はじめて、あこがれたんだよな、あんたに──。しょうねんのゆめをかんたんにやぶるなよな」
 炎少年は目にいっぱいの涙をためていた。驚いた萠黄はまじまじと少年を見返した。
「おれ、このせかいでしぬわけにいかないんだ。もとのせかいにもどらなきゃいけないんだ。それにはあんたのちからがいるんだ」
「残酷なようやけど、無理よ。戻る方法がなくなったんやから」
 しかし少年は聞きたくないと言わんばかりに首を振り、両手をついて萠黄の顔を覗き込んできた。萠黄は少年の涙顔に耐えきれず、膝の間に顔を埋めた。
 すると少年は意外な言葉を口にした。
「むんさんはいってたよ」
「──えっ」
「じじいから──しょーぐんってよばれてたじいさんから、しぬまぎわにきいたって。おれたちがリアルにえらばれたのは、ぐうぜんじゃないって。それなりのやくわりがあるはずだって」
「偶然やない……」
 あの五十嵐老人がそんなことを? いったい何を根拠に。
「おれをおぶって、ここまでおりてくるとちゅう、むんさんがはなしてくれた。あんたにもいわなくちゃ、そういってたから、もしきいてなかったら、おしえないといけないとおもって」
 それだけ言うと、炎少年は崩れるように床に座り込んだ。歩くのもしゃべるのも、よみがえったばかりの彼にとっては重労働なのだ。
 萠黄は丸まった少年の、年齢にしては小さな身体を見おろした。彼もむんの背中におぶられたのか。自分と同じだ。
 手許に目を落とす。古傷があった。そうだ、わたしはおぶられでもしないと、ひとりで保健室にすら行けない子なのだ。他人のお荷物になるばっかりなのだ。
「……違うよ。そんなことはない」
 伊里江が話しかけてきた。いつの間にか思いを声に出していたようだ。
「……あなたには人一倍、問題処理能力があるんですよ。自分自身、それを認めていないだけです」
「やめてよ、お世辞なんか。伊里江さんらしないわ」
「……聞いてくれ、萠黄さん」伊里江は珍しく気色ばんだ。「……よもや忘れたとは言わせませんよ。あなたは私が粋を尽くして築き上げたネット城・アルカトラズを、ものの見事に陥落させたじゃありませんか」
「それはゲームの上の話やん」
 伊里江は息をひとつつくと、
「……もう何日になりますか。いっしょに行動するようになって」
「え………」
「……最初こそ、むんさんや揣摩さんの陰に隠れていましたが、萠黄さんはその時々において、逃げる私たちに進むべき道をほのめかしてくれましたよ。……なかには、リアルキラーズの待つ自宅にパソコンを取りに帰ったり、夜中にたったひとりでコテージを抜け出したりと、危険なこともたびたびやってくれましたが」
「わがままやからね」
「……逆に、そうやって萠黄さんは、何度となく自らピンチを切り開いてきたのです。端的な表現をすれば……そんなときの萠黄さんって、キレてるんですね」
「………」
「……褒めてるんです。誤解なきよう」 
「ううん、判る気がする」萠黄は首を振った。「いつもそうやねん。わたしってタメにタメこんで、最後に爆発するタイプやから」
 伊里江はハハハと薄く笑ってから真顔に戻り、
「……いいですか。兄は──正確にはPAIですが、彼は私たちを巻き込んだこの事態を、ゲームと称してはばかりませんでした。その結果、最後の砦ともいうべきWIBAにたどり着いたのです。いわば難攻不落の城。そして状況は最悪です。萠黄さん──ゲームはまだ続いているのですよ」
「ゲーム……」
 伊里江は力強く頷いた。
「……そうです。全宇宙を巻き込んだ、史上最大にして空前絶後のゲームです」
 ピチャッ。床に置いていた萠黄の指に冷たいものが触れた。あわてて引っ込めた指先から、水滴がぽたりと落ちた。
 水はいつの間にか、萠黄や伊里江らのところにまで達していた。
 滝は依然として湖水を注ぎ続けている。WIBAがかなり傾いだため、落下地点は大きくズレて、壊れた観客席の上をはじいている。
 見えている床はもう残り少ない。仲間を水中から引き上げた男たちも、無情に押し寄せる水の進撃に、なすすべもなく立ち尽くしていた。
 連れ込まれた人たちの生き残りと、リアルたちを合わせると、総勢五十人。
 絶体絶命である。
 萠黄は背にしていた壁に手を触れた。ざらつく表面は留置場を思わせるような冷たさを放っている。つなぎ目はあるが、叩いた感じは非常に堅い。
 立ち上がって、手の平を壁面にぴたりと付けてみた。そして気を集中させる。
 壁と腕が一体になるイメージを思い浮かべる。
 伊里江や炎少年は、萠黄のやろうとしていることを理解したのだろう。黙って萠黄の背中を見つめている。
 手の平がボワッと熱くなった。
 頃合いと思い、ありったけのパワーを込めた右腕で壁を強く押した。
 壁が光を放ったように見えた。手の平の周囲がぐにゃりとへこむのを感じた。
 ああっ、おおっ。歓声が上がる。男たちも固唾を飲んで注目しているのだ。
 壁の向こうがどうなっているのか、萠黄は知らない。もしも海だったら──。そんな不安がよぎったが、それでも今より悪くはならない。すべては一か八かだった。
 光がどんどん広がっていく。だが──。
 壁から受ける反撥は予想以上に大きく、期待したほどの変化が現れない。萠黄は焦りを感じ始めた。
 ──せめて壁一枚でも剥がせれば。
 そんな目論見だったのだが、壁はわずかにくぼんだだけだ。
(もう限界)
 その時、横から伸びた手が萠黄の腕をつかんだ。
 清香だった。彼女はもう一方の手を壁の上の萠黄の手に重ねた。途端にパワーが倍加した。ぐりぐりとふたりの手が壁にめり込んで行く。
 それでも拳が入る程度にくぼませるのが精一杯だった。
「頑丈すぎるっ」
 精根尽きた萠黄と清香は、離した手を床について倒れた。
(まるで鳥籠や。この空間からは、逃げたくても逃げられへんのや)
「歯がゆいなあ。それでもリアルかあ?」
 炎少年が冷たい目で見おろした。
「おそらくは、水圧に十分耐えられる造りなんだ」
 シュウの庇う声が近づいてきた。とはいえ彼にも焦りの色は隠せない。萠黄は自分が役に立たなかったことに恐縮すると、「ほら」とシュウは手を差し出した。携帯が握られていた。
「君のだろ。さっき落とした」
「そうです。……すいません」
「あっ」
 炎少年が叫んだ。目が遠くで焦点を結んでいる。
 戦慄が背中を走った。


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