Jamais Vu
-321-

第23章
光道の果て
(8)

 萠黄は水を掻きながら、悲鳴のほうへ近づこうとした。身体を動かすと腕の付け根がジンジンと痛む。水の冷たさがかろうじてそれを抑えてくれた。
 片手泳ぎでは思うように進まない。そのうちに悲鳴が波に飲まれたのか聞こえなくなった。萠黄はようやくパワーを使うことに頭が行き、絡み付く水に逆らわず、身にまとうイメージを思い浮かべた。
 泳ぐのを止めた身体が水の上を滑り始めた。一直線に突き進み、声の主を救い上げると、そのまま水の鎧の中へと引き込んだ。
 声の主は腕の中で震えていた。その顔は凍りついたように蒼白だったが、さっきは確かに唇のあいだからナマ声を上げていた。
「炎くん!──」
 信じられなかった。確かに萠黄は彼が発した声を聞いたのだ。
 少年の身体は氷のように冷えきっていた。萠黄は彼を抱え上げると、耳許で名前を呼んだ。
 三度目にして閉じていたまぶたが重たげに開いた。まるで糊で固めた割れ目を引き剥がすかのように。
 意外にも少年の目はくりくりと愛らしく、円らな形をしていた。数年ぶりに明かりを受けたせいだろう、瞳はすぐにすぼまり、ぎこちなくまばたきを繰り返した。
「もえぎさん、おれ……」
 たどたどしい声はスピーカーや携帯越しに聞いていたものとはまったく違った。
「大丈夫。じっとしてて」
 萠黄はとっておきの餌を抱えたラッコのように少年を胸の上に乗せると、背中をサーフィンボードに見立てて、水の上を滑り始めた。
 鼻の先にある少年の頭頂部に血がにじんでいた。顔を傾けると、首筋にも打ち身の痕がある。
「痛む?」
 ささやくように問いかけると、
「すこしだけ。でもからだじゅうのしんけいがこんがらがってて、からだのどこがどうなってるのかよくわからないんだ」
 少年は持ち上げた指を動かそうとしたが、フワフワと震えるばかりで思うように動かせないようだ。
「ちぇーんがきれたとだれかがさけんだ。そしたらみずのおとがした。そのあとしばらくしてごすんとにぶいおとがはしって……めがさめたらみずのうえにいた。おれ、じぶんのめでみてる。じぶんのくちでしゃべれてる」
 冷たい水が萠黄の正気を取り戻させた。少年が三年に渡る植物状態から奇跡の復活を果たしたのは、冷たい水のせいだろうか。それとも頭や首をどこかに打ちつけたせいか、それとも──
「りあるぱわーのおかげかな?」
「その全部かもね」
「ぜんぶ?」
 背中がゴツンと壁に当たった。と同時に伸びてきた腕が、彼女を水から引き上げてくれた。雛田だった。
「この子をお願い」
 萠黄は炎少年を雛田に託した。
「なんだ、おっさんか」
 少年が前置きなしに投げた言葉に、雛田はウワッと叫んで尻餅をついた。あわてて清香が少年を受け止める。
「みんな無事か?」
 ハジメが客席の向こうから駆け寄ってきた。すぐ後ろにシュウが続く。さらにその後方には、伊里江と齋藤が横たわっているのが見えた。全員頭のてっぺんから足の爪先まで、ぐっしょりと濡れている。立体から振り落とされ、ここまで泳ぎ着いたのだ。
 炎少年の突然の復活には、皆が驚きを隠せないでいた。少年は自分に注目が集まっていることには頓着せず、くんくんと鼻を鳴らしていた。
「くさいな。よごれたみずのにおいやら、こげたにおいやら」
 焦げた臭いは、ハジメに撃たれた真崎が千切り捨てていった身体から立ちのぼる煙のせいだ。萠黄が気を失っているあいだのことをシュウが説明して聞かせた。
 萠黄も水中で見たことを伝えた。立体を攻撃したのは真崎で、薄い紙に姿を変えた彼はいまだにこちらを狙っている可能性についても。
「ハジメさん、来てくれてうれしい」
 萠黄が素直に礼を言うと、いつもクールなハジメが柄にもなく顔を赤らめた。それでも萠黄の左腕に気づくと顔を強張らせた。
 観客席の後ろ、そそり立つ壁の真下に、もはや正多面体ではなくなった黒いFRPの塊があった。かがみ込んでいた六道が立ち上がって、両腕で×印を作った。
「ご覧のとおり、ただの瓦礫になっちまった」
 それを聞いて、落胆の影が皆の上に覆いかぶさった。
「ウソ……わたしたち、元の世界に帰れないの?」清香が抑揚のない声でつぶやいた。「この世界で自爆しちゃうの?」
「そうだ。それもあと二日でな」
 冷徹な声でシュウが答える。
「いま、午後四時」雛田が腕時計を見つめる。「米軍がWIBAを攻撃すると予告した明日の正午まで、残り二十時間だぞ」
「ほっほっほ。短いようで長いな。長いようで短い」
 齋藤老人の笑い声にも力がなかった。正二十面体を守るためにパワーを使い続けていたのだ。ぐっしょりと濡れた全身は一回り小さくなったように見えた。
 がっくりと肩を落とし、あるいは膝をつく面々をよそに、シュウだけは辺りの警戒を怠らない。真崎に対抗する武器もないのに、目だけで滝の向こうを掃海している。
 萠黄のパソコンは水の底に沈んだ。
 持っていた携帯も、服を失った時にどこかに落としてしまった。自分の携帯ではなかったが、ギドラが転送したモジがいたのに。
 この時、初めて尻の辺りの異物感に気づいた。取り出すと、むんの携帯だった。
 そや、これはむんのジーンズやったやないか。裾を折り曲げ、無理矢理たくし上げているのだが。
「……やあ、萠黄さん」
 水滴の落ちる髪をかき上げながら、伊里江が近寄ってきた。萠黄はむんの携帯を再びポケットにしまった。
「どない? 具合は」
「……まるで重い風邪をひいた気分ですよ。……あなたも大変な目に遭いましたね」
「もうええねん」萠黄は伊里江の横に寝転がった。「リアル世界に帰る手だてもなくなったし──」
 ひと呼吸の間があって、伊里江が言った。
「……逃げるんです」
「え?」
「……もうここには用はありません。危険な怪物もいることですし、急ぎ、WIBAを脱出しましょう。後のことはそれから考えればいいんです」
「考えるったって、どうしようもないよ。──第一、米軍は衛星を使うか何かして、WIBAを見張ってるはずや。わたしらがのこのこ上がって行ったら、その瞬間に核ミサイルでも打ち込まれるんと違う?」
「だろうな」頭上からシュウの声が降ってきた。
「あかんやん。それに──湖の中を逃げたとしても、どこへ逃げるの? 逃げた先に米兵がいてへんていう保証はあらへんよ。向こうかって必死なんやから」
「しかし、いつまでもここにいるわけにはいかんぞ」
 シュウが頭を転じた。見るとすでに湖水は傾斜のある観客席の三分の二までを水没させていた。
「調べた限りでは、残念ながら逃げ道はない。あるとすれば──」
 天井を見上げる。滝の流入口であるスリットが遥か天井に見えた。シュウが降りてくる時にはくぐり抜ける余裕があったが、今や水量は倍加し、隙間はなくなっていた。
 無理か。シュウは吐き捨てた。
「………」
「何だって?」
「もうええですよ」萠黄は目を閉じながらうわごとのように口を動かした。「ここにおったら自動的に溺死できますから……。リアルの全員が死んだら、爆発は起きへんのでしょ? それやったらこれで解決や。シュウさんも『よくぞ所期の目的を完遂した』って、総理からお褒めの言葉をもらえるよ……」
 俺だって地上に戻ることはできない。シュウはそう言いたかったが、萠黄の言い分ももっともだと思った。
 ここにはヴァーチャル世界に迷い込んだリアルが全員揃っている。彼らが時の満ちるのを待たずにここで命を落とせば、真佐吉も彼の遺言を守ろうとしたPAIも滅び去った今、問題はすべて解消する。
 したがって爆発は起こらない。リアル世界ともども助かるのだ。そしてそれこそがリアルキラーズの最終目的ではないか。リアルを全て抹殺する、それが自分に課せられた使命ではないか。
 すでに燃え尽きている伊里江。重傷の身体をリアルパワーでかろうじて支えている萠黄。雛田の膝で泣くばかりの清香。精も根も尽き果てたような齋藤老人。奇跡のような復活劇を見せたが満足に動くには程遠い炎少年。元気なのは小田切ハジメだけだ。
 もうひとりいた。真崎。
 今の彼に人間の心などひとかけらも残っていないのかもしれない。まあ、どちらでもいいことだ。奴もここでいっしょにくたばってくれれば……本当にくたばるだろうか? あの怪物が──。
 ふと我に返ると、ハジメが萠黄に対して強い口調でいい募っている。
「──死にたい? フザけんなよ。死ぬのはいつだってできるじゃないか。しかもアンタはエネルギーを発散させる技を知ってんだろ? だったら生き延びることだって可能だ」
「もうええねん」
「ええことなんかない! みんな死ねばいい? へっ、ご挨拶だね。俺はイヤだ。まだ死にたくなんかないよ。これからエネルギーを発散させる方法を修得して、ずっとこの世界で生き続けてやる」
「そしたら生きてるあいだ、ずーっと命を狙われるんやで」
「上等だ、受けて立ってやる。言ってなかったが、俺は犯罪者だ。刑務所をリアルパワーで脱獄してるんだ。いまさらまともな生活なんかできるもんか。それならいっそ、スリル満点の逃亡生活を送りたいもんだね」
「この世界に生きてる限り、リアルは世界の人々にとっては迷惑な存在なんよ。いてないほうがええんよ」
「なんで他の見ず知らずの奴らのことなんか考えてやる必要がある! 総理を始めとする政府の連中は俺たちリアルをハナっから殺すつもりで、こいつら迷彩服を」とシュウを指さして、「差し向けたんだぞ。助けようなんて考えもせず! よしっ、俺は決めた。ここを脱出したら、その足で国会に乗り込んでやる。そして総理やら笹倉とかいう防衛庁長官らを痛い目にあわせてやる。連中のど真ん中で爆死してやってもいい」
 ハジメは眉を寄せた顔をツンと上げ、ぼんやりとした表情を浮かべたままの萠黄を見おろすと、
「萠黄さん。アンタが死ぬのはアンタの勝手だ。俺も勝手にさせてもらう」
 そう言うと、くるりと背中を向け、清香や齋藤のいるほうへと歩いていった。
 見送りながら、萠黄は独り言をつぶやいた。
「呆れられてしもた……。みんなそうや。わたしが教室で目眩を起こすたびにしゃんとしろって怒鳴りつけた中学の先生やら、思い切って心療内科に受診したことを打ち明けたとき、『世間体の悪い』て言うたお母さんみたいに……。やっぱりわたしは、ここぞという肝心なところでアカン人間なんやな。リアルなんかに選んだ神様のいたずらを恨むわ」
 ふっとため息をついた時、声が聞こえてきた。
〈アカンなんてことあらへん。ようがんばったよ〉
 まぎれもない、むんの声だった。萠黄はうれしくなり、顔を輝かせた。
「ああ……霊魂がまだ残ってたんやね。これもリアルパワーのおかげ? 最後にまたお話できてうれしいよぉ」
 涙があふれてくる。やはりむんとの結びつきは特別なのだと実感した。むんの声はあくまでも優しく、エコーがかって頭の中に響いた。
〈萠黄。死のうなんて思ったら、それこそアカン。わたしを悲しませんといて〉
「そんな……。むんかて死んでるやん。わたしも仲間入りさせてよ。フフフ」
 萠黄は自分の言葉に笑ってしまい、恍惚とした表情で楽しげに頭を左右に振った。
 しかし、続くむんの言葉が萠黄の呼吸を止めた。
〈何言うてんのん。わたしは死んでへん。生きてるよ〉


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