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しぶきはすぐに消え、元の渦巻く水面に戻った。上から何かが落ちてきたのか、はたまた疲れ目かと、雛田は目をこすりながら上空を見上げた。 カーテンのように取り囲むエンジェルフォールの壁は、いまだに衰えることなく湖水を注ぎ続けている。彼らのいる競技場が水没するまでには、あと数時間とかからないのではないか。 「どうした?」 シュウが緊張の面持ちで近づいてきた。気絶している萠黄を連れて、彼も正二十面体に乗り移ってきたのだ。狭く足場の悪い立体の上には、他にも清香、齋藤、伊里江、炎少年、六道がおり、ハジメが水の打ち寄せる客席側から、まさに飛び移ろうとしていた。 「いえ……目の錯覚でしょう。何もないのに水がしぶいたような気がして」 シュウは顔色を変えた。怒ったような視線を周囲に走らせる。雛田はあわてて、 「いや、気にしないでください。僕の見間違いでしょうから」 「そうとも限らん」 シュウの頭にあったのはもちろん真崎のことだった。怪物の姿になったのが、本人の意思によるものか、あるいは持てるパワーに自らの身体が耐えられなくなった結果なのかは判らない。ただ、あれほど盲目的にリアルを追い続けた彼のことだ。生きていればきっとまた襲ってくるだろう。死んだなどと楽観視するのは禁物だ。 水面には水草や死んだ魚など、さまざまなものが浮いている。そのあいだに、まだ新しい建築資材や潰れた段ボール箱などが混ざっていた。上の階から押し流されてきたのだろう。多数の漂流物に邪魔されて、水中をうかがうのは容易ではない。 「もしや、さっきのパン生地ですか? アイツはハジメ君の光線を浴びて──」 雛田が不安を打ち消そうと強いて明るい声を立てた時だ。水がバシャッと大きく跳ねた。 立体からわずか五メートル。不自然な跳ねかただった。 「伏せろ!」 シュウは両腕を広げて雛田と清香を押し倒した。ほぼ同時にヒュッと風を切る音が傍らを通り過ぎ、カンッと骨組みを鳴らす音がした。 シュウは素早い動作で銃口を向けた。 しかし、その先にあったのは、齋藤と六道の疲れた顔だけだった。シュウは戸惑った。 見逃した──? いやそんなはずはない。 優れた動体視力はシュウの天分のひとつだ。その彼の目が捉えなかったということは、本当に気のせいか。 今度は別の方角で水面がしぶいた。 シュウが反応して身体を起こすと、コンマ〇一秒の差で、顔のそばをつむじ風が通り過ぎ、薄く皮膚を切り裂いた。 やはり気のせいではなかった。つむじ風は風などではなかった。そこに心臓の脈打つ音さえ聞こえた。真崎の鼓動だった。 だが、狙われたのはシュウではなかった。 正二十面体を天井から吊るしていた太いチェーンが、バチンと弾けるように切れた。唯一の命綱ともいうべきチェーンを失った立体は、ゆっくりと水面に落下した。 立体が着水する衝撃が、気絶していた萠黄のまぶたを開かせた。 (──ここは?) 幸運にも立体は沈まなかった。あらかじめ滝の水にさらされることを想定してか、中心の核の部分は防水設計の筐体に収納されており、図らずもそれが浮き袋の役割りを果たしたのだ。 「うわわわ!」 上半分で浮いた正二十面体は、水の上をゆっくりと転がった。萠黄はずり落ちる背中を止めるべく両手を伸ばそうとして、ようやく左腕のないことに気がついた。彼女は滑り台を滑り落ちるように、水中に放り込まれた。 あぶくが萠黄を押し包む。酸素を求めて右手を掻いてもなかなか浮上できない。 パニックに陥りそうになった瞬間、ふと、底知れぬ冷たい感覚が萠黄の背中を撫でた。 真崎──奴がそばにいる! 水の中で薄目を開く。見上げる水面はキラキラと照明の明かりを映している。多少濁ってはいるが、水中の視界はそれほど悪くない。 (どこにいる?) 人間の姿も、パン生地の怪物も見えない。それでも彼女のアンテナは、邪悪な意思がそばにいることを告げていた。 四方に顔を巡らせる。やはり真崎の姿はどこにもない。 萠黄はもがくのを止め、じっと気配をうかがった。腕がないせいでバランスが取りづらかったが、リアルパワーは使わなかった。使えば相手も萠黄の存在を嗅ぎつけるだろう。まだ気づいていなければの話だが。 (こちらも気配を消そう。水に同化するみたいに) 同化? 萠黄はあらためて周囲を取り巻く“水”に注目した。 (いた) 驚いたことに、真崎はすぐ目の前にいた。 ハジメに手ひどくやられたパン生地のような身体を、さらに極限まで薄く広げていたのだ。あまりに広げ過ぎた身体はほとんど紙のようで、向こう側が透けて見えていた。まるで水に同化するように。 真崎は萠黄に触れそうな近距離で、さながらエイのように泳いでいた。泳ぎながら真崎はその薄っぺらい身体を蛇腹のように縮めた。その姿は、獲物を狙って伸びる前のカメレオンの舌を連想させた。 舌の先には、波に翻弄される正二十面体があった。 (あかん!) 萠黄はありったけのパワーを右手に込め、真崎に向かって突き出した。パワーは波動となって水を動かした。 しかし真崎の動きはそれより速かった。伸びた蛇腹は立体の底部に命中し、その衝撃音は萠黄の耳を叩いた。 立体が水面から消えた。空中に弾き飛ばされたのだ。同時にパワーの直撃を受けた真崎も、クシャクシャの紙となって濁った水の向こうへと見えなくなった。 萠黄は急いで浮上した。息が限界だったのだ。 客席に打ち上げられた立体が、真っ先に目に付いた。黒く細い骨組みは無惨にもひしゃげて横たわり、透明カプセルも粉々に砕けて、すでに見る影もない。 「ああ……転送装置が……」 萠黄から全身の力が抜けた。 仰向けになって水の上に浮かんだ。ふいに笑いたい気分がしたのでアハハと笑ってみた。笑うとさらにおかしみが増大し、声を上げて爆笑した。 最後の転送装置が壊れた。 元の世界と繋がる道が消えてしまった。 あと少しやったのに。 やっぱり現実は、映画みたいにうまいこといかへんもんやなぁ……。 右手を動かして、左腕の付け根をさすってみる。 左腕はもはや存在しない。これも現実や。 頭の中が霞がかかったようだ。これもたくさん血が流れたせい。現実。現実。 目の端に、自分の着ているTシャツが映った。むんのだ。むんは──むんは──ホンマに死んだん? 笑顔はやがて涙顔になった。思わず拭おうと伸ばした手は右腕だけ。左腕はむんといっしょにあの世に行ってしまった。 あれほど生気に満ちあふれたむんがいなくなるなんて。わたしなんかより、むんこそ生き続ける必要のある人やのに。 (最後は、そばにおらんでも、テレパシーで話ができるようになったのに……) まあ、わたしもいずれ爆発してこの世界から消える。このヴァーチャル世界で死ぬことになるんやねぇ。アハハハ──。 助けてぇ。 誰かが悲鳴を上げていた。そう遠くではない。 時々声が途切れる。どうやら溺れているらしい。 アホやな、泳げもせんのに水に入るなんて。 ああ、立体から投げ出されたんか。気の毒に。 ……にしても、聞き覚えのない声やな。どなた? 萠黄は大儀そうに顎を引き、うつろな目を声のほうに向けた。 声の主は意外にも、目と鼻の先に浮かんでいた。しかしそれが誰なのかを知った時、萠黄は目玉が飛び出すほど驚いた。 頭の中の霞が一瞬にして吹き飛んだ。 |
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