Jamais Vu
-317-

第23章
光道の果て
(4)

 周囲の景色が、ふっと遠のいた。
 意識を失おうとしているのか。
 そうではなかった。萠黄の身体が縮み始めたのだ。元の大きさに戻ろうとしているのだった。
 そのせいか、無性に身体が熱い。後から後から汗が噴き出してくる。まるでサウナに入っているようだ。実際には行ったことはないけれど。
 聞こえるのは心臓の音ばかり。早鐘のようにって表現はこんな時に使うのだったか。呼吸もひどく荒い。肺が大量の酸素を欲して、必死に働いている。
 萠黄の指は、左腕の切断面をなぞるように撫でた。まるで沸騰した薬缶を押しつけられているような熱い痛みが、付け根を通ってじりじりと伝わってくる。
 この上もない虚脱感が重くのしかかる。動こうにも、足にも腰にも力が入らず、気力さえ吸い取られるように消えていく。
 もはや、頭の中は真っ白だった。
 どうして自分はここにいるんだろう? なぜこんな目に遭うんだろう? むんは──そうだ、むんはどこにいるんだろうか? むん無しでは何をしていいのか判らない。
 リアルキラーズに我が家を襲撃され、母が殺された。猫のウィルもいっしょに。伊里江真佐夫と出会って、むんや揣摩とともに逃亡を続けた。米軍の攻撃も受けた。ヴァーチャルの伊里江が落命した。久保田と出会った。岩村とサキを手に掛けてしまった。京都では父と再会し、清香や齋藤と出会ったのも束の間、脱出。たどりついた先はWIBA。なのに真佐吉は既に亡き人だった。
(それで……それから、何があったかなぁ)
 頭の中がグシャグシャで思い出せない。そして、自分がこんなヒドい苦痛を受ける理由が思い当たらない。こんな罰を受けるようなことを、何かしでかしたのだろうか?
 ──疲れたな。
 ずっと片隅に追いやっていた睡魔が、ゆらりと腰を上げて萠黄に襲いかかってきた。そういえば大津のコテージ以来、まともに眠る暇がなかった。
 上瞼が終演の幕のように降りてくる。ちょっとのあいだでいいから眠りたい。
 その時、狭まる瞼のあいだを横切ったものがあった。ふと、まぶたの下降を止め、ゆっくりと顔を上げた。
 あれほどのダメージを受けたはずのパン生地の怪物が、萠黄の前にすっくと仁王立ちしていた。そう、怪物は今や二本の足で立っていた。両腕もある。あちこちに焦げ目があるが、まぎれもなく人型に変貌していた。
「も……えぎ……」
 驚いたことに、怪物の顔のあたりに切れ目ができ、言葉が漏れ出した。その上には横に並んだ二つの切れ目。人間だった時の目の名残だろう。
「これ……で……お……前も……終わ……りだ」
 目と口の間が隆起し始めた。鼻だ。口には赤味が差し、唇らしい形に変わろうとしている。
「お前を……殺せば……俺は……英雄だ……親父に……ギャフン……と言わせ……てや……る」
 言っていることはよく理解できないが、まぎれもなく真崎の声だった。浮き出した顔が真崎に似てきた。のっぺりした肌の上に、まるでデスマスクのように浮かぶ真崎の顔。傷跡までが再現されている。それは能面のような、あまりに不気味な顔貌だった。
 ──ここで真崎にやられるのか。
 あきらめの気持ちが次第に心を支配していく。ひどく眠たい。もういいや。何も考えたくない。
 今にも眠りに落ちてしまいそうだった。しかし、腕の激痛が伝わってきては、失いそうになる意識を何度も引き戻そうとした。
 怪物はあらぬほうを向いてかがみこみ、またこちらに向き直った。そして萠黄の瞼が閉じようとした時、つかんでいたものを彼女の膝の上に、無造作に放り投げた。
 左腕。一瞬にして萠黄の目は覚めた。顔を上げると、真崎は人間とは思えないひきつった声で笑った。
「……とどめだ……」
 怪物の手は、萠黄の腕を切り落とした円盤を握っていた。円盤の周囲には、一枚目のよりさらに鋭い刃が並んでいて、まるで食虫植物の棘のようにうごめいている。
 隊長代理! 男の声がした。怪物は振り上げた腕をそのままに、わずかに横を向くと、
「シュウか……黙って見てろ」
 言い捨てると、怪物は腕を大きく振りかぶった。シュウの部下がやられたように、唐竹割りにするつもりだ。
「あばよ……」
 裂けた唇がにやりと微笑んだ。ところがその時、怪物は奇妙な動きを見せた。足の裏を前に突き出すと、ぐらりと傾き、背中から客席の上に倒れていったのだ。グエエと動物めいた悲鳴とともに。
 萠黄にひとつの影が迫ってきた。
「まあ──ヒドい!」
 清香だった。彼女はリアルパワーで怪物を背中から攻撃、いや空気の塊を当てて、押し倒したのだ。
「これを着るのよ」
 清香は倒れたままの怪物を一瞥すると、全裸の萠黄に手早くジーンズをはかせ、急いでTシャツに首を突っ込ませた。ジーンズの丈は彼女の足より幾分長かった。
「服……どこにあったん?」
「むんさんのよ。構わないでしょ?」
 ──むん!
 途端に現実がドッと頭の中に流れ込んできた。
 むんが死んだ──。あらためて突き付けられた事実は、やはり受け入れがたいものだった。
「わたしも……死にたい……」
「バカッ」
 清香が萠黄の頬を平手で打った。
「ヴァーチャルのむんさんがここまでがんばったのに、リアルのあなたがそんな弱気でどうするの!?」
 厳しい口調でたしなめる。萠黄の目はうつろなままだ。
 清香は萠黄の傷口を見やった。
「スゴい……。もう塞がりかけてる。さあ、早く逃げるのよ!」
 清香は自分の肩を貸して萠黄を立たせようとした。しかし、動くと痺れるような激痛が全身を貫き、萠黄はたまらず腰を床に落とした。
 怪物は、再び飛びかかろうと身構えていた。バランスの悪い二本足を反省してか、今度は足を仕舞い込み、元のパン生地に戻っていた。
 清香は空いている手を広げて気を集中し、空気の塊を作って怪物に浴びせた。しかし相手もリアルである。容易に跳ね返すと、身体を大きく広げて迫ってきた。今度の作戦は、パン生地の中にふたりを取り込み、窒息させようというらしい。
 見上げるような怪物の壁。睨みつける切れ長の目。清香は射すくめられて、震える膝を床に落とした。争いごとを好まない彼女には、闘うなど土台無理だった。
「あわわわ」
 救いを求めて正二十面体に視線を送っても、すでに穴にたまった水はあふれんばかり、水面は立体を叩かんばかりになっている。しがみつく人々がどうにか落ちずにいるのは、齋藤が立体をエアシールドで囲んでいるためだ。それもいつまで保つか。
「萠黄さん、どうしよう……」
 だが萠黄はうなされたように、もういい、もういいとつぶやくばかりで、全く当てにならない。
 怪物は退路を塞ぎながら、静かに間合いを詰めてきた。萠黄と清香は袋のネズミだった。
 怪物は勝ち誇ったような含み笑いをこぼすと、ふたりの上にゆっくりと覆いかぶさった。清香にはそれを押し返すだけのパワーはなかった。

 水の流れ落ちる巨大スリット。ハジメはその隙間から顔を覗かせて、遥か眼下を見おろした。
 ここに来るまでは、彼の行く手を阻むものはなかった。ただ、一度は止まった湖水の流入が再び始まった時にはさすがに心配した。このままではWIBAは湖の底に沈んでしまうのではないか?
 階段の行ける所まで降りてきた終点がここだった。
 だがスリットの下には、その先の空間が広がっていた。しかもどうやら競技場のようだ。
 彼はスリットに飛び込んだ。服をはためかせながら猛スピードで落下していく。目指すは競技場。
「ン?」
 客席に妙なものが寝そべっている。動物のようで、そうでなさそうな。さらに高度を下げる。どうやら様子がつかめてきた。白い物体は眼前にいる人間を取り込もうとしているらしい。その人間は──
「清香と……萠黄、か?」
 白い物体がふたりを包み込んだ。
「ヤバい!」
 ハジメは身体を密度の濃い空気で包むと、落下速度を速め、白い物体の上に弾丸となって落下した。
 ズドンッ。
 床を揺らすほどの衝撃が走った。ハジメはトランポリンに弾かれたように宙天高く飛ばされると、一回転して、客席の中に着地した。
 白い物体は、まるでダメージを受けていない。
 彼は舌打ちし、銃を向けたまま立ちすくんでいるシュウに駆け寄った。
「なぜ撃たない」
 非難するように訊ねると、
「さっきから撃ってる。全く効かないんだ。このままでは、ふたりは窒息死してしまう」
 ハジメはもうひとつ舌打ちした。


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