|
むんの首筋から赤黒い血がほとばしった。 その光景を目の当たりにした萠黄は大きくバランスを崩し、エンジェルフォールの水に飲み込まれて、穴の底へと落下していった。 穴の内部に明かりはない。落ちるほど周囲は急速に暗くなっていく。萠黄は必死で気を集中させ、身体のまわりから水の流れを排除すると、急いでエアクッションで包んだ。風を切るようなスピードで正二十面体目指して上昇する。 むんは清香に抱き起こされていた。揺れる立体の上に突進するように着地すると、四つん這いになってにじり寄った。 むんの首はざっくりと半分までも切断されていた。即死でもおかしくないほどの大怪我にもかかわらず、薄く開いた眼が萠黄を見た。 顎や胸の辺りは、すでに砂状化が始まっている。 「わたしには止められない」 清香はうめくように言った。萠黄も反対側からむんの肩を抱き、リアルパワーが伝わるよう、一心に精神を集中させた。 それでも傷口からあふれる血流は止まらない。 「むん、むん!」 萠黄はひたすら親友の名を呼んだ。それ以外、他にどうすることもできなかった。涙が汗と鼻水に混じって顔を伝った。Tシャツの袖でぬぐっても、後から後から湧き出してくる。 むんが死ぬ──。 そんなことは有り得ない。そんなこと絶対に──。 むんの口がわずかに開いた。いや、そう見えただけかも知れない。砂状化の進行はリアルパワーで若干鈍ったようだが、それでも頬や側頭部は、着実に灰色へと変化していた。 「どうしよう」 すがるように清香の顔を見たが、彼女は困った表情で顔を横に振るばかりだった。 「……も」 むんが眉を動かして、何か言おうとした。その時、かろうじてつながっていた首の残りが、砂の塊となってごっそりと崩れ落ちた。顎と胸元の隙間には、黒光りする骨組みが覗いていた。 「──!」 言葉を失った萠黄の腕に、むんの頭がごろりと転がった。親友の目はすでに光を失っていた。 萠黄は親友の頭に頬を寄せた。冷たかった。力を込めると指の間からぼろぼろと砂がこぼれた。こぼれた砂は骨組みのあいだから、深い穴の底へと落ちていった。 救いようのない悲しみが、泉のように涙を押し出した。彫像のように眠るむんは、その涙を受け止め、ひび割れた皮膚の中に吸い込んだ。 「また来よるぞ!」 齋藤の叫びが滝の音にかぶさった。 パン生地の怪物は、再び狙いを定めるように、水の隙間で白い鎌首をもたげている。彼らのいる正二十面体ごと取り込もうとでもするかのように。 (アイツのせいで!) 萠黄はむんの頭をそっと骨組みの上に置くと、空中に向かって胸を突き出し、大きな声で吠えた。そうしないではいられなかった。 清香も雛田も首をすくめた。なぜなら彼女の咆哮は、聞く者をゾッとさせる響きがあったから。 萠黄は怒りの気迫をこめて拳を前に突き出すと、気合いと共に、立体を蹴って、怪物に向かっていった。 水をくぐる。しぶきが激しく飛び散る。思わず眼を細めた。 次の瞬間、怪物の姿が消えた。 (どこへ行った?) 萠黄は怒りに燃える目を左右に走らせた。 いた! 敵は床に作り付けの青い観客席をなぎ倒しながら移動し、最後部の壁に張りついていた。まるで壁に投げつけられたホットケーキのように。 すぐ下に、驚きの顔で見上げているシュウたちがいた。だが興奮と怒りに取り憑かれた萠黄は、脇目も振らずに怪物に突進した。握り直した拳にパワーを込めて。 「コノヤローーーッ」 ドンッッッ。 壁が怪物ごとへこんだ。しかし萠黄の拳は敵に全く触れていなかった。 シュウは落ちてくる壁の破片をよけながら、ぶるっと身体を震わせた。 「これがリアル同士の戦いか……」 萠黄は自分の身体が、まるで厚い装甲に覆われているような気がした。空気の鎧、エアスーツ。それでいて、指を伸ばせば先端まで神経が通っているような。力がすみずみにまでみなぎっているような──。 (倒す──倒す、倒す、倒す!) しかし怪物は想像以上にタフだった。自力で壁からはがれると、客席の上を転がりながら横へと逃げていく。 「逃がすか!」 萠黄も執拗に追う。伸ばした左足(のエア)で怪物の尻尾らしき部分を踏みつけ、動きを封じる。そして右足に体重をかけると、怪物の真ん中に振り下ろした。 キュウッと空気の漏れるような悲鳴が上がる。 怪物は苦しんでいる。哀れみを乞うている。 (何を今さら!) 萠黄は歯を軋ませて怒りを増幅させた。今度は怪物の特に膨らんだ部分を、力いっぱい踏みつけた。怪物は追い詰められたネズミのような声で鳴いた。 (苦しめ! 苦しみ抜け! むんはもっと痛い目に遭うたんやから) 萠黄の怒りは残忍さを帯び、さらに膨れ上がった。 「シュウさん」 部下のひとりが、ぽかんと口を開けて寄ってきた。 「なんだ」 「あの娘ですけど……俺の目がおかしいんでしょうか。身体が大きくなってませんか?」 「なっている」 「えっ?」 「大きくなっている──彼女もリアルだ。何が起きても不思議はなかろう」 ふたりには萠黄が三倍ほどにも拡大して見えた。いや見えているだけではない。実際に巨大化していた。でなければ、彼女程度の体重で、怪物を押さえきれるわけがなかった。 ごとり。 物音がした。さっきパン生地が叩きつけられた。その下の瓦礫が床に散乱している辺り。瓦礫の陰から、いま、クッションのような白い物体がゆらりと現れた。 (壁の中に詰まっていた緩衝材か?) 白い物体は二、三回転がると、勢いがついたように空中に跳ねとんだ。 「あれは?」 部下が間の抜けた声を上げたが、シュウはすぐその正体に気づいた。 「真崎の一部だ!」 クッションはまるで見えないプレスで圧縮されたかのように平べったく横に伸びた。そして空中を浮遊しながら、周囲にギザギザの刃を生やし、回転さえし始めたではないか。 「丸ノコ!?」 丸ノコはギュイーンと回転音を高めると、円盤のように、さらに高みへと舞い上がった。 丸ノコの飛んだ先には──。 「萠黄さん、後ろに気をつけろ!!」 |
|