Jamais Vu
-313-

第22章
魔王の宴
(15)

〈うわーっ、かゆくてたまらないっ〉
 ギドラは身をねじるようにして、身体を掻きむしった。元々腕がないので、代わりに頭のツノをガリガリと身体にこすりつけている。
 ツノのあいだからこぼれおちたウロコや皮膚が、砂と化して消えていく。もちろんすべてが立体映像である。実際にはアリーナには何も落ちてはこない。あくまでも「象徴的な意味」で今、ギドラはその巨大な力を奪われようとしていた。萠黄が開発したウイルスソフトによって──。
「すごいんだな、君は」
 シュウは隣りにいる、見た目は普通の小柄な女性に対して、初めて敬意のこもった視線を投げかけた。
「ラッキーなだけです。それより」
 背後からの、懇願とも哀願ともとれる悲鳴が彼女を急き立てていた。六道の妻子の命は風前の灯だった。
 萠黄は自分のノートパソコン──京都工大でもらった、リアル用に左右逆に作られた特注Mac──の画面をあわただしく指さした。
「教えてください。ここからはよく判りません」
 シュウはディスプレイを覗き込んだ。画面いっぱいに広がったウィンドウには、縦横に無数の線が走っている。
「この回路図のようなものは、あの怪獣が支配しているWIBAの制御系統を表しているんだな」
 線の終端や線同士の交点に、MOVE、ROTATE、CONNECTなどの文字が並んでいる。
「そうです。そんでOPENは、そこに閉じた状態の扉があることを示してます」
 悲鳴がひときわ大きくなった。六道の妻子を浸す水は、すでに彼女らの肩にまで達している。
「シュウさん、教えて! どの扉をOPENにしたらええの!?」
「うっ──」
 そう問われても、初めて見る図面にシュウは返答のしようがない。彼にとってもWIBAの地下は未知の領域なのだ。
 絹を引き裂くような断末魔が耳朶を打ち、それが業を煮やした萠黄の背中を押した。
「全部、開いたらええんや!」
 萠黄は指を動かした。OPENの表示をまとめて選択すると、ENTERキーに人差し指を叩きつけた。
 間に合うのか?
 逸る気持ちで振り向こうとした時、すぐそばでゴウンと大きな音が鳴った。萠黄は心臓が破裂するかと思うほど驚いた。
 だが驚くのは早かった。パソコンと接続したコネクタに隣接する壁が、手前に向かってせり出してきたのだ。
 壁はゆっくりと芝の上に倒れ、その陰から現れたのは、清香らを閉じ込めていたのと全く同じ、楕円体のカプセルだった。しかも中には人が横たわっていた。
 長髪の下の青白い顔は「弟」によく似ていた。写真で見た時に着用していたジージャンの胸元で組まれた指は、トレードマークのサングラスを握っていた。
 伊里江真佐吉。
 リアルであるその身体からは、何の波動も伝わってこない。彼はやはりこの世の人ではなかったのだ。ギドラが言ったのは事実だった。
 ザザーッと水流の音が、萠黄を現実に引き戻した。
 六道の妻子を閉じ込めていた部屋の扉は無事に開いたらしい。水流が見る見るうちに下がっていく。「逃げるのよ!」と母親の声も聞こえた。
(よかった)
 萠黄はホッと胸を撫で下ろすと、おもむろに真佐吉のカプセルへと近づいた。
 志を半ばにして倒れた非業の科学者。人工的にブラックホールを作り出すという歴史的偉業は、悲しくも、彼自身の人生までをも飲み込んでしまったのだ。
「全ゲート・オープンの命令によって、真佐吉の遺体ともご対面できたわけか」
 シュウがつぶやいた。
 弟の真佐夫にも知らせてやろうと萠黄が顔を上げた時、すぐそばにギドラの首が垂れ下がっているのに気づいた。すでにギドラの大きさは半分ほどに縮まっており、背中の翼は折れ、あれほどの輝きを放っていた身体はひからびたようにくすんでいた。
〈萠黄さん、君は大変なバカだよ〉
「………」
〈きっと後悔するよ。──まあいいや。ボクはもうおしまいだしね。最後まで君に付き合って遊んでいたかったけど、これでお別れだ。あの世で会おう〉
 そう言うと、ギドラの全身は蜃気楼のように揺らめき、またたく間に砂の塊となって崩れ落ちた。もちろん映像であるからアリーナには砂粒ひとつ落ちてはこなかった。
「PAIに天国はないよ」
 萠黄はぽつりと言った。
 しかし感慨に浸っていられたのも、そこまでだった。壁に続いて、今度は床が動き始めたからだ。
「あっ」「うわっ」
 萠黄はバランスを崩して転倒した。それほど床の動く速度は速かったのだ。
 男たちがワッとどよめいた。我先にとアリーナを囲む壁に向かって駆け出した。
 萠黄はようやく事の重大性に思いが至った。なぜ気づかなかったのか。全ての扉をOPENにするということは──。
「アリーナの床が開いていくぞ!」
 シュウが驚くのも無理はない。彼はさきほど開いていた時にはいなかったのだ。
 正十二角形のアリーナ。今またそれが十二個に分かれ、周囲の壁の下に引き込まれようとしている。
 何人かが足を滑らせて、奈落の底へと落ちていった。それがまた男たちをあわてさせ、押し合いへし合いとなり、彼らの逃げ足を鈍らせた。
「萠黄さん、君も客席に登れ」
 シュウは萠黄の腕をつかんだ。ふたりがいたのは壁際だ。気をつけないと、自分たちまで床とともに収納されてしまいかねない。
「む、むんが」
 例の正二十面体の骨組みの上、むんは雛田や清香、齋藤、炎少年らとともに取り残されていた。力の出ない伊里江も、必死の形相で骨組みの横っ腹に張りついている。
「助けにいく!」
 そう言ってジャンプしようと腰を屈めた途端、つんと水の臭いが鼻をかすめた。萠黄は頭上を振り仰いだ。すると天井に円周状に開かれたスリットから、再び多量の水が噴き出したではないか。
(外との隔壁まで開いてしもた──)
 一度はギドラによって電力供給のために開かれたエンジェルフォール。不用意にも、その元栓を再び開いてしまったのだ。
「バカっ、死ぬつもりか!」
 シュウは萠黄の胴に手を回して、客席へと手荒に放り投げた。続いてシュウも壁を乗り越えた時、滝の先端がアリーナに達した。
 湖水はまだ仕舞い切っていなかった床を叩き、男たちの半数を穴の底へと払い落とした。その中には萩矢もいた。
「ああ! ──どないしよう」
「どうしようもない」
 すでに萠黄の前は、エンジェルフォールで仕切られていた。跳ね上がる水滴が彼女の全身をずぶ濡れにする。
 水のカーテンの遥か先に、天井から吊り下がった正二十面体が透かして見える。取り残されたむんたちは、逃げ場を失い、ひたすら骨組みにしがみついている。何とかしなければ。
「やっぱりわたし、行きます!」
 萠黄はシュウの腕を振り切って、客席のあいだを右へと駆け出した。
 滝には放水口のスリット間の隙間に合わせて、四方向に切れ目がある。萠黄はそこから突入しようというのだ。
「待っててや、むん」
 切れ目の正面に立った萠黄は、躊躇せずに壁を越え、空中に身を躍らせた。
 天井からたった一本のワイヤーで吊り下げられた黒い正二十面体は、まるで振り子のように円を描いて揺れている。乗っている人々はたまったものではない。萠黄は空中を泳ぎながら考えた。彼らをどうやって救い出そう。
(あの立体こそが転送装置やと、ギドラは言うてた。重たそうやけど、エアクッションで立体ごと助けられたら……)
 その時、骨組みの上に伏せていた雛田が、何ごとか叫びながら、萠黄の斜め後方を指さした。
 肩越しに後ろを見た萠黄は、エンジェルフォールの向こうに白くうごめくものを認め、愕然とした。
 あのパン生地が──元は、真崎だった怪物が、観客席の後ろに開いた四角い扉から這い出してきたではないか。
 シュウたち、数人の迷彩服は、それぞれ銃やマシンガンで応戦しているが、怪物には傷ひとつ付けられない。
 怪物は、そのうごめく巨体から一枚の布切れを落とした。萠黄はそれに見覚えがあった。最後に会った時、柊が着用していたTシャツだ。すると彼はこの怪物に食われてしまったのか。
 怪物は狭い扉をくぐり抜けると、シュウたちには目もくれず、客席の上をごろごろと転がりながら、まっしぐらに滝へと近づいた。そしてカタツムリのごとく伸ばした二本のツノを滝の中にくぐらせ、にょろにょろとアンテナのように動かした。
(わたしたちを探してる?)
 ツノはすぐに引っ込んだ。と、間を置かずに怪物は身体を細長く伸ばすと、水しぶきを上げて、滝の中に突っ込んできた。その先端はまるでドリルのように回転していた。萠黄に向かって一直線に迫ってくる。
「わっ」
 そのカミソリ状に平べったく変形した怪物に対して、萠黄は空中で宙返りすると、間一髪で接触を逃れた。
 しかし怪物の身体は、勢いがついたまま止まらず、骨組みの上にいた、むんに向かって直進した。
 萠黄は身体を回転させながら、その光景を見た。
 むんの首が怪物によって深々と切り裂かれるところを。


[TOP] [ページトップへ]