Jamais Vu
-312-

第22章
魔王の宴
(14)

 パン焼き器に放り込まれた、焼き上がる前のパン生地──萠黄はそんなものを連想した。
 しかし、このパン生地は生きていた。
 焦点距離の短い広角レンズが捉える中、白い物体はブヨブヨとうねるように動いていた。が突然、生地の一片が跳ねるようにレンズに急接近したかと思うと、映像はそこでぷつりと途絶えてしまった。
 と同時に、あのドゥンと壁の鳴る音が響いてきた。忌まわしい音の正体は、あのパン生地だったのだ。
「何やったん、今のは……。気色悪ぅ」
 萠黄は手で、鳥肌の立った二の腕をさすった。
「あれは」むんは警戒するように壁を睨みながら、萠黄に顔を寄せてささやいた。「信じられへんやろけど──真崎よ。真崎はリアルやってん」
 萠黄は二重の意味で驚いた。
「ウソ……信じられへん」
「でも事実よ。わたしはこの目で、真崎が人間の姿から怪獣に変身するのを見たんやもん」
「………」
「真崎はね。リアルパワーを、身体を変えるのに使うことができたらしいわ」
 ギドラの声が割って入った。
〈なるほどねぇ。リアルが操れるのは空気やガスばかりじゃなかったんだね〉ギドラは、納得したと言わんばかりに頷いている。〈そうなると、彼にも協力してもらう必要があるな。でもあの図体じゃ、カプセルには入らないかぁ〉
 まだやるつもりなのか?
「もうあきらめるんやね」萠黄は高飛車に言った。「アンタの務めは、真佐吉さんが亡くなった時点で終わってるんよ。おとなしくNASAに帰りなさい」
 ギドラは答えず、改めてスクリーンに別の映像を映し出した。
 緊張感が高まった。
(今度はどんな生き物が出てくる?)
 だが意外なことに、現れたのは普通の人間たちだった。年輩の女性と三人の女の子。彼女らは一様におびえた表情を浮かべていた。背景には殺風景な白い壁。どこかのせまい一室に押し込められているようだ。
「貴様!」声を荒げたのは六道だった。「俺の妻や子供まで、人質に捕まえてやがったのか!」
 なんと、彼女らは六道の家族だったのだ。
〈そりゃそうだよ。万全を期すためにね。さあ、リアルたちを計画どおり、カプセルに導いておくれよ〉
 真佐吉の傲岸な口調は影を潜めたが、言ってることは前と同じである。
「しつこいぞ! 俺はもうお前の命令など──」
 三人の中で一番小さな女の子がキャッと悲鳴を上げた。彼女らの足許をひたひたと水が打っており、水位は見ているうちにどんどん上昇していく。
〈さあさあ、六道さん。急がないと取り返しのつかないことになっちゃいますよ〉
 ギドラは、真佐吉になりすますことから解放されたせいか、冷酷なセリフを口にするのも、まるで雑談でもしているかのような軽やかさだ。
“PAIが従うのは、オーナーの命令だけ”
 人類の永遠の友と謳われた犬から、キング・オブ・ペットの地位を奪取したPAI。
 ユーザが圧倒的に支持したそのPAI原則が、知能の高いギドラにおいても、揺るぎない根幹をなしているなら、ギドラを説得して真佐吉の遺言に背かせることなど絶対に不可能だ。
 水は、末娘を抱えた母親の膝に達してなお、上昇をゆるめない。
「六道さん……」
 萠黄が声をかけると、
「何も言うな! どうせアイツの言うとおりにすれば、リアル爆発の相乗効果で、この世界は消えてなくなるんだろうが! どっちみち俺たちに助かる道はない。それに」六道は涙に濡れた顔を上げ、「俺たちはホンモノじゃないんだろ? リアルの──ホンモノの俺や俺の家族は、向こうの世界でちゃんと生きてるんだろ? それならヴァーチャルの俺たちが死のうがくたばろうが、大騒ぎするようなこっちゃないんだ。ハハハハハハ」
 妻が六道の名を口にした。彼は両手で耳を塞いだ。
 アレレ、とギドラが茶化すように言った。
〈六道さん、家族を見捨てるのかい? それはひどいな、人間のすることじゃないよ〉
 萠黄の怒りは沸点に達したが、どうすることもできない。
〈君が動かなくても、次は別の家族が犠牲になるだけさ。時間の無駄というものだよ〉
 アリーナの男たちに戦慄が走った。次は誰の家族だ?
 いたたまれず、萠黄は顔を背けた。その目がアリーナの隅でかがみ込んでいる迷彩服たちを捉えた。
 萠黄は正二十面体を蹴った。ひと飛びで十数メートルを滑空すると、彼らのそばにひらりと着地した。
「何してるの?」
「やっとコネクタを見つけた」シュウは手を止めずに答えた。「俺たちは地上から1フロアずつ、地道にセキュリティを解除してきた。ここでもそれができれば、ヤツの企みを阻止できるかも知れない」
 シュウは壁のコネクタとケーブルで接続した小型コンピュータのキーを、狂ったような速度で叩いている。
 画面に『ファイルをアップロード中』のメッセージと、経過を示すインジケータが表示された。
 百パーセント。アップロードは終了した。
「………」
 神経を研ぎ澄まして、場内の様子を観察するシュウ。しかし何の変化も訪れない。
〈──ぷっ、アハハハハハ〉
 ギドラは、我慢できなくなったというような笑い声を上げた。
〈ボクを見くびらないでほしいな、リアルキラーズの皆さん。そんなレベルの低いプログラムじゃ、この最下層エリアのコントロールをボクから取り上げるのは無理だよ〉
 それを聞いた萠黄は、素早く背中のリュックを下ろした。中を開け、ノートパソコンを取り出す。ディスプレイを立てて起動ボタンを押すと、画面が明るくなるのも待たずに、シュウのマシンに手を伸ばし、コネクタを根元から抜き取った。
 アッと叫んだシュウを無視し、外したコネクタを自分のマシンに接続する。立ち上がった画面を見ながら、目にも止まらぬ速さでデスクトップに置かれた真っ赤なアイコンをダブルクリックした。
 たちまちアップロード開始のメッセージが現れたが、ハードディスクのアクセスランプが灯ったが、わずか一秒で消えた。
「これはわたしお手製のウイルスソフトです。伊里江さんのサイト“アルカトラズ”を破る時に開発したのを、京都工大で改良したモンで──効いてくれたらええんやけど」
 聞かされても、シュウは険しい目を白黒させるばかりで理解が追いつかない。
 ピッ。
 ディスプレイ中央に新たなウィンドウが開いた。
 ウィンドウは黒一色に塗り潰されていたが、その中をグレーの直線が植物のように枝を伸ばしつつあった。枝はある場所ではふたつ三つと枝分かれし、ある場所では円を描いて停止した。
 伸びた線はまるで血管に血が通うように、根元から少しずつ枝の色をレッドへと変化させ、さらに後を追うようにブルーへと変化させていく。
〈あ……かゆい。なんだか身体がかゆいぞ〉
 萠黄はチラッとギドラに視線を送り、すぐにディスプレイに戻す。
「どうやら効いてるようです」
「あのPAIに対してだな?」
「そう。このグレーの線は、認識できたシステムを表しています。レッドがウイルスの達した箇所。ブルーは」
「コントロールを奪い取った部分?」
「はい」
 ふたりは同時に背後を振り返った。
 宙に浮かぶギドラの身体から、全身を覆う黄金のウロコが次々とはがれ落ちていた。そしてあらわになった皮膚にはヒビが走り始めた。


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