Jamais Vu
-306-

第22章
魔王の宴
(8)

「だぁぁぁーーーっ」
 動物じみたがなり声が、萠黄に現実感を取り戻させた。
 雛田は伸ばした腕を振り回しながら、
「違う、違うぞ!」
と何度も首を振って否定する。真佐吉の声はそれを打ち消すようにヴォリュームを上げ、
〈何をいまさら隠す? せっかくの感動的な親子の対面ではないか。私にも祝福させてくれたまえ。……ところで、清香さん、君は彼のことを単なる親しいおじさんと思っていたらしいが、本当の父親であると知った今、どんな感想をお持ちかな?〉
 萠黄は胃の中がムカムカするような不快感を味わっていた。
 そのあわてぶりからして、雛田は清香に親子の名乗りを上げるつもりがなかったか、あるいは名乗るタイミングを見計らっていたのではないかと、萠黄は想像した。父親との複雑な関係が続いた彼女ならではの勘だ。
 しかし、当事者らにとっては、人生を左右するような重大事を、真佐吉はいともあっさり清香に告げてしまった。
 雛田は拳を骨組みに何度も打ちつけて、怒りをあらわにした。こんな形で清香に知られてしまうなんて……。
 しかしそんな悔しがりようさえ、真佐吉を喜ばせたようだ。
〈あっははは。清香さん、ごらん。お父さんは泣いて喜んでいるよ。君もうれしいだろう。長野で惨殺された影松豊氏は君とはまったく関係のない、赤の他人だったんだから。本当によかったね〉
 真佐吉はあくまでも、人の心をもてあそぶつもりでいる。萠黄は見ていられなくなり、雛田から顔を背けた。それでも不快感はどうしようもなく募っていく。
 彼女は支えていた萩矢の頭をそっと人工芝の上に置くと、反撃する手はないものかと、脳をフル回転させた。理屈で考えれば、どうしようもないほど絶望的な状況ではあるが。
(何か方法はあるはず。方法が──)
 必ずある。リアルの勘がそう言っていた。萠黄は神経を極限まで研ぎ澄ませた。
 すると腕の表面が、風もないのにざわついた。と同時に、空電のような、とぎれとぎれの声を耳にした。
『──も──え──ぎ──」
「むん!」萠黄は四方を見渡した。「どこに!?」
 むんの声は、まるでデジタル通話のように、ぶつ切りになって流れてくる。
『──待って──て──助けたる──』
 今度は途切れるとそれで終わりだった。だが萠黄には十分だった。
 むんは望みを捨ててはいない! 囚われの身となっても、萠黄に向かって思念を飛ばしてくれているのだ。
 絆。
 萠黄は今ほどかけがえのない友のありがたさを強く感じたことはなかった。
(大丈夫! わたしもがんばるから!)
 萠黄も思念を返した。返事はなかったが、届いたという確信があった。
 萠黄は骨組みに手をかけて昇り出した。雛田のそばにいてやろうと思ったのだ。このままでは可哀想すぎる。
 正二十面体を真ん中あたりまで昇った時、雛田がふらつくように立ち上がるのが見えた。
「お集りの皆さん」雛田の声は、まだ場内のスピーカーに繋がったままだ。「よっくご覧ください。かつては皆様のお茶の間をそれなりににぎわせた芸人が、生き恥を晒しております!」
 男たちの頭が動いた。やっぱりカゲヒナタか、だとか、ウワッ懐かしい、という声が上がる。
「覚えてくださっていたかたもおられるようですね。大変うれしく思います。そうです、私はカゲヒナタの片割れ、雛田義史でございます。……お恥ずかしい話、羽振りのいい頃は羽目を外しもしました。人気の上に胡座をかいて、人を人とも思わぬ所業に走ったことも二度や三度ではございません。……たとえば、デビューして二年目、ペーパードライバーの私は運転したくてたまらず、マネージャーからハンドルを奪って、横浜の町を猛スピードで駆け抜けたことがありました。その時、信号待ちしていた車に突っ込み、乗っていたカップルをむち打ちにしてしまいました。……その時、私はやってきた警察に嘘の証言をしたのです『運転していたのはマネージャーだ』と」
 男たちは静かになった。冷めた目線が雛田に集中する。
「……売れっ子になり、人気も収入もトップに躍り出た頃から、私は後を追ってくる若手芸人たちに怖れを抱くようになり、彼らの芽を摘むことに躍起になり始めました。共演する時など、前もって楽屋で脅しをかけたり、女の子を使ってスキャンダルの罠を仕組んだりということもしました。そうして見込みのある若手たちを次々と追い落とし、大して才能のない者たちばかりを共演者に引き立てました。……じつに卑劣極まりない人間です、私という男は」
 雛田は一息つくと、あわてて言い添えた。
「ただし、やったのは私ひとりの考えです。影松はああ見えて、汚いことが嫌いでしたので」
 チラッと清香のカプセルを振り返りかけて、すぐに顔を前に戻す。
「ここにいる影松清香は、ご存知のかたも多いでしょう、いま人気ナンバーワンの女性アルパ奏者です。……私はつい数日前、影松豊本人の口から、彼女が私の娘であることを知らされました。私にとっては青天の霹靂であり、受けた衝撃は人生最大のものでした。……彼女とは、彼女が小さな頃から手紙をやりとりする間柄でした。自分で言うのもなんですが、私をよく慕ってくれました。事実を知らない私は、彼女のような娘がいたらなと思いつつ、ずっと彼女の成長を見守ってきました。……彼女の存在は、私の心のオアシスでした。特に、私がトラブルを起こして芸能界を放逐されてからは、私の人生で唯一の支えでもありました。……でも、もう終わりです。私は彼女に、親子であることを告げるべきかどうか、これまでずっと悩んでいましたが……真佐吉によって……最悪の形で暴露されてしまった……」
 いつの間にか、身振り手振りを交えての話になっていたが、その声がぷっつりと途切れた。
 萠黄は、雛田がなぜ急に懺悔を始めたのか、理解に苦しんだ。そんな自虐的な行為は、真佐吉を喜ばせるばかりか、男たちの反感を買い、あまつさえ、清香を悲しませることになるではないか。
 いや、それだけじゃない。
 萠黄の目と雛田の目が合った。
 萠黄は「もうやめて」と目で訴えた。カゲヒナタはお笑いマニアである萠黄の、永遠のアイドルなのだ。これ以上、夢を壊さないでほしい。そんな思いで眉を寄せたが、四十五歳の雛田の蒼ざめた顔からは、彼の思いを読み取ることができなかった。
「私には父親になる資格など、ありゃしないんです、ええ。……そういえば、こんなこともありました。カゲヒナタで温泉レポートの番組に出演した時のことです。やる気満々のディレクターが、僕に向かって「足を滑らせたフリして、温泉の中に服を着たまま飛び込め」と、突然思いついた指示を出しました。僕は頭に来ましてね。ちょうど我々は事務所を立ち上げたばかりで、多少、天狗になっていたんでしょう。くだらんと言って拒否したんです。それでなくても、ヤラセは僕もカゲも虫酸が走るほど嫌いなタチでしたんでね。ところがディレクターは納得しなかった。オマエら、いい気になるなよ、芸人は言われたとおりに動けばいいんだ。ない頭を使おうなんて思い上がるな、とこう怒鳴りやがった。さすがに頭に来た僕とカゲは一計を案じた。そして、撮影の直前にカメラマンと示し合わせて、リハ中にカメラを回させたんです。僕たちはディレクターを言葉巧みに温泉のそばにおびき寄せると、ふたりがかりで奴を湯の中に思いっきり突き飛ばした。カメラマンは、ディレクターが勝手に転けたように見えるよう、抜群のアングルで撮影してくれた。もちろん僕たちはお叱りは覚悟の上。二度とその局では使ってもらえまいと思ってた。でもたまたま現場にスポンサーの社長が見学に訪れていて、これがまた信楽焼のタヌキそっくりの社長だったんですが、腹鼓をポンポン叩いて笑ってくれたんです。おかげで僕たちの首は皮一枚でつながったんです。映像はタヌキ社長の後押しで、無事オンエアされました。ハイ」
 ここで男たちのあいだに控えめな笑い声が起きた。萠黄は我が耳を疑った。
「──このディレクターってのが、これがまたガマガエルのつぶれたようなツラした奴で、そんな奴が温泉の中で溺れてるんですよ。しかも奴は一滴の酒も呑めない男で有名でした。だから僕はオンエア時にこっそりテロップを入れてやりましてね。『下戸、下戸』って」
 だぁーっと脱力気味の爆笑が湧き上がった。表情を失くしていた男たちのほとんどが頬をゆるめていた。どの目もキラキラと輝いている。中には涙を流している者までいる。ひょっとすると、昔はカゲヒナタのファンだったのかもしれない。
 初めはつっかえ気味だった雛田のしゃべりが、今や堅さも取れ、淀みなく言葉が溢れ出てくる。
(──これって、まるで雛田さんの独演会みたい)
 萠黄は笑うこともできずに、顔を真っ赤にしてしゃべくる雛田を見つめていた。
 タヌキだの、ガマガエルだのと、雛田は持ち前の“暴想力”を全開にしつつあった。


[TOP] [ページトップへ]