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男たちの顔に、一斉に緊張が走るのが肌で感じられた。 雛田は少しばかり困惑の表情をたたえてうつむいた。その向こうには、カプセルの透明ケース越しに、彼の娘である清香の背中があった。 〈遠慮することはない。まあ聴衆は男性ばかりで、はなはだ恐縮ではあるがね。君の声はこの競技場のメインスピーカーから流れるようにした。さあ早く始めたまえ〉 真佐吉は毒を含んだ声で催促した。しかし雛田は戸惑いを深め、 「僕はただ、アンタに謝りたいだけで──」 〈口答えするな。ちゃんとやらないと、次の犠牲者が出ることになるぞ〉 そして再び静寂。男たちは構造物を囲んでまばらに突っ立ったまま、じっと雛田を見つめている。まるでゾンビの集団だ。どの顔も血色の悪さが目立つのは、ずっと地下で生活させられていたせいだろう。 そんな彼らを前に、真佐吉に謝罪しろという。真佐吉は雛田をさらし者にしたいのだ。恥をかかせたいのだ。 「ええっと、高い所から失礼して、お集りの皆様に申し上げます。ワタクシの失言にて、皆様を不快な立場に追い込んでしまいましたことをお詫び致します。ごめんなさい」 雛田の声は朗々と響き渡り、続いて彼はぺこりと頭を下げた。 すると男たちの一部に変化が生じた。「アイツ、カゲヒナタの片割れじゃねえか」とささやく声も聞こえた。 〈──それで終わりか? バカ芸人〉 真佐吉の声が怒気をはらんだ。 「これ以上、何を……」 〈私に言わせたいのか? まったく愚民というのは救いようがないな。本来なら貴様のごときくだらん芸人風情が、私という選ばれし者とこうして会話を交わせること自体、奇跡なのだが、な〉 萠黄のはらわたは煮えくり返った。何が選ばれし者だ。 〈面倒くさいが、貴様ごときに、私に対して意見する価値などないことをたっぷりと教えてやろう。 ──雛田義史!〉 「ハ、ハイ」 フルネームを呼ばれて、思わず肩を強張らせ、丁寧に返事してしまったのは、長年の不遇な生活のうちに染み付いた、悲しい習性だ。 〈貴様、昨秋、演歌歌手のミエコを連れて東北を巡業した時、会社の金を着服したろう〉 雛田のこめかみをねっとりとした汗が伝った。 〈貴様が各所で支払った金額と、会社への請求額が十万ほど合わないのはなぜだ?〉 「そ、それは……生活苦で──」 〈この春のことだ〉真佐吉は淡々と続ける。〈駆け出しの男性アイドルグループ、ノワールブルーの熊本公演に同行した時、直前にメンバーのひとりが脱退して、六人になっていたにもかかわらず、予定どおり部屋を七つ用意し、その一室を貴様が使用したんだったな。それだけじゃない、グループのファンの女の子を部屋に連れ込んだそうじゃないか〉 「違う! あれはグループに会おうとホテルに潜り込んできた少女を説得して帰らせようと思い──」 〈彼女は貴様に迫られたと、自分のブログに暴露していたぞ〉 「でたらめだ! 断じてそんなことはしていない!」 〈さあ、どうだか……。結局、会社は、いや社長であり君の元相棒でもある影松豊は、示談で解決したようだがな。それなのにネット上で暴露されてしまうなんて、子供相手の商売はつくづく、うまくいかないものだね〉 「………」 〈もう少し紹介しようか。──君はつくづく女性とのトラブルの多い男だな。低俗な芸能週刊誌の公式サイトで過去ログを検索してみたのだが、いやはや何とも凄まじいではないか〉 真佐吉はカラカラと笑った。 〈ほう、こんな記録もあるぞ。なになに、『夜の六本木の路上で、カゲヒナタの雛田、ファンに蹴飛ばされ、あわや車にひかれそうになる』か。こんな出来事のどこにニュースバリューがあるのか、理解しがたいね。じつにくだらん。──おや?〉 ギクリとした拍子に、雛田の顔から汗が飛び散った。 〈警察のサーバには、ファンの女性側の言い分として、ひかれそうになったのは自分だと書いてある。この女性の名前で検索してみよう。──ふむ、女性は君を告訴しようとしたらしいね。ところが後になって取り下げている。さらに彼女は虚妄癖があるとして入院させられ、二十年を経た今もまだ退院していないそうだ〉 「………」 雛田は目を閉じて、身体が震えるにまかせていた。 (あの頃は……碧と別れた寂しさから、極度の自暴自棄に陥っていた。仕事をしているあいだは忘れることもできたが、夜になれば碧のことばかり思い出し、気持ちのコントロールが利かなくなることもたびたびだった) 突然、真佐吉は口笛を吹いた。 〈これは素晴らしいお宝を発見したぞ。なんと彼女のPAIにアクセスすることに成功した! それによるとだな……彼女は今でもPAIに繰り言を聞かせるのが日課になっているらしい。PAIのメモリにはこんな言葉が記憶されている。『雛田さんは嘘をついた。被害者の私は、加害者に仕立て上げられた』と──〉 「もうたくさんだ!」雛田は叫んでいた。これ以上は耐えられない。「アンタの言うとおりだよ。僕は目撃者がいないのをいいことに、嘘の証言をした! 事件になるのを恐れたんだ。彼女の人生をメチャメチャにしたのは僕に間違いない!」 〈ほう、認めるのだね、自分がヒドい人間であると〉 「……そう言われてもしかたがない」 〈そうか──。ところで後ろを見たまえ〉 真佐吉の言葉に操られるように、雛田は首をねじると、彼の目は予想もしなかったものを捉え、愕然とした。 眠っていたはずの清香の目が大きく開かれ、じっと雛田を凝視しているではないか。 「な──なんで?」 雛田は激しく取り乱した。まさか今の話を──? 〈ハッハッハ。つい数分前、覚醒ガスを流し込んで、清香さんには目を覚ましてもらったのだよ。もちろん君の話をいっしょに聞いてもらおうと思ってね。おっと、言い添えておくが、カプセルは外の声は聞こえても中の声は聞こえないようになっている〉 清香は眉根を寄せて、何かを訴えようと口を動かしているが、かすかな声さえも聞こえてこなかった。 〈彼女は君の告白を全て聞いていたよ。感想を聞いてみようか? 私だけが直接、会話できるようになっている。……やあ、影松清香さん。お目覚めのところにいきなりショッキングな話を聞かせられ、さぞかし驚いていることでしょう。本来なら一流の音楽家であるあなたの耳を汚したくはなかったのだが、どうしても聞いてもらう必要があったのでね。それというのも──〉 「やめろ! やめてくれ!」 雛田は喉が張り裂けんばかりの声で叫び、真佐吉の声を遮ろうとした。 (清香はどこから聞いていた? まさか……まさか!) 〈どうしたんだい? お笑い芸人がお客さんに対して、そんな真剣な顔を見せてはいけないねえ〉 「頼む!」雛田は哀願の目を天井に向けた。「許してくれ! 僕が最低の人間であることは認める。だが……これ以上はもう……勘弁してくれ!」 〈いいだろう〉 意外なほどあっさりと、真佐吉は承諾した。雛田は肩の力が抜けたが、それでも顔を上げない。 〈ただし、最後のノルマを与えよう〉 「ノルマ……?」 〈そうだ。君は私を罵倒した。その反対の言葉を口にしてくれればいい〉 「反対の言葉……」 雛田は記憶をまさぐった。 彼は真佐吉を、強請るネタを探して他人の携帯を盗聴するチンケな男≠ニ評した。それを否定しろというのか。 「……そのー、アンタは盗聴マニアなんかじゃない」 〈それで?〉 「……誰かを強請るなんてことはしていない」 〈それから?〉 雛田は頭を抱えた。何だこれは? こんなことにどんな意味があるっていうんだ? 〈さあ、続けたまえ〉 続けろったって。 「……アンタは、その、チンケな野郎なんかじゃない。立派な学者さんだ」 〈もっと大きな声で!〉 こんなの、大人の会話じゃない! 「アンタは、世界一優秀で立派な学者さんだ!」 〈名前を入れて!〉 「ウッ……、伊里江真佐吉は、世界一優秀で、聡明で、立派な物理学者だァ!!」 最後はもう意味も考えずに、ただただやけくそに喚いただけだった。 汗が顔や手首から黒い骨組みへと伝い落ちる。ずっと大きな声で話していたため、喉は枯れて無性に渇きを覚えた。唾を飲み込むと、その喉がずきんと痛んだ。 また、拍手の音が競技場の空に鳴り渡る。当然、真佐吉が叩いているのだ。 〈よくできました。いい子だ〉 その声には、つい今しがたまであったどす黒い悪意が消えていた。真佐吉は上機嫌な口振りで、それでも以前と同じ傲慢さで言葉を続けた。 〈弱みを握られ、脅されながらも、脅されていないと言う。信念のない人間とは、じつに見下げ果てたものだな。こんな男が、君の実の父親だなんて、私には到底信じられないよ、清香さん〉 |
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