Jamais Vu
-301-

第22章
魔王の宴
(3)

「流されなかったのか」
 シュウはちらっと視線をよこすと、すぐまたせわしなく動く手許に戻した。その髪の毛や服から水がしとしとと垂れている。
「シュウさんこそ──何してるんですか?」
 足を止めると、途端に背中の重みが膨らむ。むんは手すりによりかかって息を継いだが、耐えきれずにそのままずるずると階段にへたり込んだ。
 意識のない人体が重いことは知識として知っていた。幼い頃から弟の面倒をみてきたむんは、人を背負うには自信があったが、ここ数日の疲労もあって、さすがに限界を感じていた。濡れたまま身体にへばりついた服や靴のせいもある。
「これか? フロアを解放するために各階を管理するPAIにリセットをかけている」
 シュウはPDA(携帯情報端末)のキーを注意深く叩いている。PDAから延びたケーブルは、壁のスリットに差し込まれたICカードに繋がっていた。
「真佐吉に洗脳されたPAIですね」
 リセットすることで真佐吉から受けた指令を全て削除し、合わせて初期設定された以外のふるまいはしないよう、ソフト的に足枷をはめるのだ。
「そうなんだが」シュウは唇を曲げた。「やられたよ。洪水が起きたのは、WIBAの水面下にあるベントに注水されたせいだ。建設の途中、ここは広さや重さが度々変わったので、そういう部分が必要だったらしい」
「上の階はリセット済みだったんじゃ──」
「だから、やられたんだ。ここの管理は複雑に入り組んでるようだ。アノ社長がもう少し友好的なら、こういうこともあらかじめ想定できたのにな」
 アノ社長がどの社長なのか、むんには判らない。
「この作業も無駄かも知れないが」
 よしと叫んでカードを壁から抜き取る。シュウはむんに向き直ると、ようやく彼女の背中の炎少年に気づいた。
 目を丸くするシュウを尻目に、むんはよっこらせと両膝に力を入れて立ち上がった。
 階下から足音が駆け上がってくる。シュウの部下だ。
「副長!」部下は敬礼すると、もつれる舌で報告した。「三つ降りれば、ここは行き止まりです。ですが水が流れ込んだ穴の先には、空洞のようなものがあります。そこに何があるのか、霧のため視界が悪く、はっきりとは見えません。引き続き、仲間が調査中です」
「他に流されなかった人はいるの?」むんは訊ねずにはいられなかった。「あなたがた以外の民間人が」
 答えてやれと、シュウが目顔で促した。
「一階下のフロアに、伊里江という男が倒れています。他にも数名」
「雛田さんは?」
「見当たりません」
「よしっ」シュウは表情を引き締めると、PDAとICカードを部下に差し出した。「残りの階は貴様にまかせる。できるな?」
「はっ」部下は緊張とともにそれらを受け取った。
 シュウは階段を駆け下りたが、すぐに足を止め、重い荷物を背負ったむんを振り返った。
「気にしないでください。すぐに追いつきます」
 むんは先手を打って、強い口調で言った。
「そうか」
 シュウは軽く手を挙げると、水たまりを跳ね飛ばしながら、階下へと姿を消した。
「さてと……行くよ、炎クン」
 肩越しに呼びかけると、少年の携帯が声を発した。
《捨てていくわけには、いかないもんな。あさってには北海道級の爆発を起こす俺をよ》
 減らず口は相変わらずだ。むんも負けてはいない。
「転送装置を見つけたら、素っ裸にひんむいた上に、オチンチンに旗立てて放り込んだるワ」

 雛田は左手で額を拭った。いつの間にか冷たい汗が全身を伝い落ちていた。滝の水で湿度が上がったことばかりが理由ではない。
「どうして──」雛田の右手の指先は透明ケースに触れたままだ。「どうして、それを」
〈ハハハハハ〉真佐吉は癇に障る笑いかたをした。〈なぜ君とそこの清香さんが親子であることを知り得たかと問うのかね? 簡単な推論だ。彼女が生まれた日、病院には彼女の母親が分娩室に入った記録がない。立ち会った医師や助産師もいない。しかも母親は直前まで、君と付き合っていたという情報もある〉
「それだけじゃ清香の出生を疑う根拠にはならん!」
 雛田は声を裏返して叫んだが、真佐吉はそれ以上は笑って取り合わなかった。
 雛田は背広の内ポケットから携帯電話を取り出した。
「なあ、カバ松よぉ。なんでアイツは知ってんだ?」
 しかし画面に映ったカバ松はフリーズしたままで、単なる待ち受けの静止画と化していた。
「オイ、カバ! この大事な時にフザけるなよ、オイったらオイ!」
 携帯を腕で叩いてみたりする。それでも凍りついたカバ松に動く気配はない。チクショー、やっぱりPAIなんか相手にするんじゃなかったと、雛田は清香の眠るケースに額を押しあてながらわめいた。
(PAIがフリーズ? こんなタイミングでそんなことが起こるかな?)
 疑念が萠黄の胸に去来した。それも真佐吉の仕業ではないのか?
 ──にしても。
 萠黄は少なからぬ衝撃を受けていた。あの清香さんと雛田さんが親子だったとは。萠黄の中では清香のキュートなルックスと、芸人雛田の丸っこい体格がどうしても重なり合わなかった。
 真佐吉の声がした。今度は含み笑いだ。
〈こうして見ると、君の後ろにいる萠黄さんのほうが娘としてはお似合いだな。フフフ〉
 萠黄はむっとした。が、雛田が振り向いたのであわてて顔を逸らした。しかしその態度こそ相手を傷つけるものだと気づいて、自己嫌悪に陥った。
 真佐吉はふたりの反応がよほど気に召したのか、ひとしきり笑うと、
〈つくづく、君たちを観察していると時間を忘れるよ。しかも、ふたりとも屈折しているようでいて、その実、素直なところまで瓜ふたつだな〉
 大きなお世話だ。萠黄は舌打ちした。真崎とはタイプは違うが、真佐吉も他人を翻弄することに喜びを見出す人間なのだ。そんな性格が災いして、かえって自分で自分をピンチに追い込み、向こうの世界で命を狙われる羽目になったんやないんか!
〈愉快ついでに、私からも面白いことを教えてあげよう。まあ、雛田さんの芸ほどではないかもしれんが〉
 いちいち言うことが皮肉ったらしい。
〈影松さんを殺したという『長野防衛隊』だが、その種を蒔いたのは私だ。細菌テロの怖れがあると、彼らにデマを流したのは私なのだ〉


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