Jamais Vu
-300-

第22章
魔王の宴
(2)

 雛田が手足をバタつかせながら落ちてくる。
 彼の発する意味不明な言葉が、萠黄の脳を揺さぶり、彼女の意識をはっきりと覚醒させた。同時に頭の中いっぱいにエアクッションをイメージすると、雛田の落下地点──萠黄のいる構造物とはかなり離れていた──に置いた。
 雛田の身体が、何もない空中でバネのようにバウンドした。
「うひゃあぁっ」
 声を裏返しながら上下する伝説の芸人。テレビ番組の中なら爆笑を買うこと必死な光景だが、萠黄は全神経を集中させて、受け止めた雛田の身体をゆっくりと引き寄せた。
 生きた心地がしなかったのだろう。雛田は白目を剥いてグッタリしていた。
 細かく入り組んだ黒い骨組みの上に、どうにか雛田の重い身体を乗せ、萠黄はフウと全身で息をついた。
 構造物を通して、眼下にぽっかりと開いた深い穴が見える。落ちればひとたまりもない。今は放水も止まっているため羽根車は回っていないが、何人が鋭い羽根の刃にかかったろうか……。
 萠黄はぎくりとした。ここに雛田がいる。真佐吉に見せられた映像には、むんや仲間たちが映っていた。
「ねえねえ」
 萠黄は真っ白な顔を黒い骨組みに押しつけている雛田の肩を揺さぶった。しかし瞼の裏から現れた黒目が、萠黄の顔に焦点を合わすまでには少し時間がかかった。
「ああ、萠黄さんか……僕、もしかしたら、まだ生きてる?」
「間違いなく」
「そうかい」
 雛田はまた目を閉じた。
「むんたちといっしょやったんでしょ?」
「ああ、迷彩服に同行させてもらってね。でも、いきなりだよ、鉄砲水が階段の上からザーッて」
 彼は銃を構えながら前進するリアルキラーズの後ろから、中村らと及び腰でついていった。むんは炎少年の車椅子とともに最後列にいたという。洪水は彼らを飲み込み、階段の上を転がしながら下へ下へと押し流した。彼は最後の最後で滝に流れ着き、落とされるまいと何かにしがみついていたという。それでも力尽き、手を離した。
「むんさんたちは無事だと思うが……で、なんで僕はこんなヘンなのに乗ってるの?」
 萠黄は天井を指さして言った。
「あそこから落ちてきたんですよ」
 仰ぎ見た雛田はウヒャッと叫んで身体を強張らせた。目分量でおよそ五、六階の距離。
「で、で、こ、ここは、どこなんだ」
「真佐吉さんのホームグラウンドらしいですよ」
 雛田は驚きっぱなしで剥き出した目をあちこちに這わせる。
「この黒いのは──いやそれよりあの丸っこいケースは何だ? ちょちょちょっと!」
 雛田は構造物の上を匍匐前進した。その先にある透明ケースを目指して。
「なあ! こ、これ、清香ちゃんか? なんでこんなところに入れられてんだ!?」
 萠黄は、清香も自分といっしょにここへ渡ってきたが、途中で離ればなれになり、彼女は齋藤とともに真佐吉に捕えられたと話した。
 話しているあいだも、雛田は清香のケースに顔を押しつけている。怖いほどの目付きだ。
「コイツは開かないのかい?」
「わたしの力では……。今の今までリアルパワーも充電中でしたし」
 萠黄はそろそろと骨組みの上を雛田のそばまで移動した。そしてケースの端をつかみ、クッと力を込めた。
「鍵がかかってますね」
「割ってくれればいいんだ! ──いや、済まない。命の恩人に対して許されん物言いをしてしまった」
 雛田は一瞬で沸騰した感情を、あわてて抑え込んだ。
「いいえ、そんな……やってみます」
 パワーはかなり回復しているできるかも知れない。萠黄はそばに寄ると、強化樹脂でできたと思われるケースに両手をあてた。
〈待ちたまえ〉
 真佐吉の声だった。それが場内に大砲のように轟いた。
 萠黄は目を開いたが、構わず両手に力を込めようとした。
〈そのリアルボールは傷つけないほうがいいぞ。なぜならそいつは、君の元の世界、リアルワールドへの転送装置でもあるんだからな〉
 萠黄の手がケースから離れた。
 これが? この妙な形をした物体が?
〈私はウソはつかない。親の私がそれでは、ゲームにならないからね〉
 この期に至って、まだバカなことを言っている。萠黄は寄せた眉根をやや晴れてきた霧のカーテンに向け、
「ゲームやなんて、どの口が言うてんのよ! そもそも爆破装置と転送装置が同じやなんて、フェアやないわ」
〈そう言われると、返す言葉はないな〉
 真佐吉に悪びれた様子は小指の先ほどもない。
「おい、伊里江真佐吉──さんとやら。僕は雛田、雛田義文という者だ」
 雛田はバランスの悪い球体の上に立ち上がった。そして、ケースに置いた片手を支えに、もう一方の手で拳を作ると、声に対して話しかけた。
 萠黄はハラハラしながら見守るしかなかった。
「僕はこの子の」ケースの中を指し示す。「影松清香の父親の相方だ。父親はつい先日死んだ。僕の運転する車で娘に会いにいく途中、長野防衛隊とか抜かすガキどもに殺されたんだ。無念の死だった……。僕は彼から託されたんだ。娘を頼むと。だから僕はこの子の父親代わりでもあるんだ。
 アンタの身の上は、少しっぱかり聞かせてもらった。どえらい発明をしたために兄弟ともども大変な苦労をしたんだってな。弟を連れて逃亡生活の日々を送ったんだってな。判るよ、自分の苦労より肉親の苦労のほうが心にズンと来るもんだ。
 だからよ。僕の気持ちを察してもらうわけにはいかないかな? 僕はただこの子に幸せになってほしいんだ。僕の命なんざどうなってもいい。何なら僕が身代わりになってもいい。その代わりに、この子を自由にしてやってはくれないか?」
 萠黄は聞きながら、胸が熱くなるのを感じた。伝説のお笑いコンビ、カゲヒナタのボケ役雛田は、こんなにも相方の娘のことを心配しているのだ。自分の命を差し出そうとまでするなんて。──もちろんヴァーチャルではリアルの代理にはなれないのだけれど。
 雛田の横顔に涙がこぼれた。萠黄は少し腑に落ちないものを感じた。相方の意志を継いだとはいえ、清香は他人の子だ。なのに雛田からは尋常でない熱意が伝わってくる。それほど彼と清香のあいだには密接な交流があったのだろうか?
〈ほう。あなたは往年の人気コメディアンだったかたですな。ふむ──少し検索させてもらいましたよ。──カゲヒナタですか。浅学にして私は存じ上げておりませんでしたがね〉
 言葉はへりくだっているが、居丈高な口調はそのままだ。
〈某大物タレントが司会をつとめる番組に出演した際、四つん這いになり、犬の真似をして見せろと言われ、これを拒否。逆にお前がやってみろとその大物タレントのネクタイを引っ張ってスタジオをぐるぐる回った──ハハハハハ。それで業界を追放されたのですか。これは痛快な、ハハハハハ〉
 萠黄のはらわたが煮えくり返った。関西弁でいう、いてもうたろかの気分だ。
 インターネットが普及して以来、人の過去は消すことができなくなった。テレビを見ていても、リモコンでカーソルをタレントに重ねるだけで、生い立ちから賞罰、小さなスキャンダルから『街で見かけました写真』まで検索できる始末。他人のアラ探しなど、本腰入れてかかれば、プロの探偵でなくてもできてしまう時代だ。
(だからこそ、知ってても口にせえへんのが、大人の分別っちゅーもんでしょうが。それをこの真佐吉という人は──)
 雛田は頭を垂れて、軽卒な真佐吉の言葉をじっと耐えている。
 萠黄は思い出した。彼はあの事件以来、業界を干され、このような目には何度も遭遇してきたのだ。なぜ知っているかといえば、萠黄も検索しまくったことがあるからだ。だから、ブレイクする前後、雛田にはゴールイン確実と目されていた女性がいたことも知っている。その後、破局し、女性は相方の影松と結婚したことも。
 そうして生まれたのが、清香だ。
(雛田さんは、かつての恋人への面影を清香さんに見てはるんやろう……)
 萠黄は自分の置かれた状況を忘れて、ファンの立場でしばし、ごひいき芸人の思いに心を馳せた。
 しかし広い場内にサラウンド放送のごとく響き渡る冷たい声が、萠黄の心を一瞬のうちに現実へと引き戻した。
〈ふむ。これはつまり、雛田さん。清香というお嬢さんはあなたの実の娘なんですね〉


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