Jamais Vu
-299-

第22章
魔王の宴
(1)

 足首の冷たい感触が、ハジメの目を開かせた。
 何度かまばたきを繰り返し、焦点が合ってきた時、彼は自分の足が水に浸かっていることを知った。
「洪水か!?」
 呆然とするハジメは、その時になって自分の両腕が万歳をする格好で、鎖で壁に繋がれていることに気づいた。さらに周囲を極太の鉄格子が囲っている。
 鉄棒の隙間から見える部屋の中には人の姿はない。
 ──あの時。リアルキラーズに隠れ家を発見された時、ハジメは久保田たちを逃がそうと敵の前に立ちはだかった。ところが威勢が良かったのはそこまでで、迷彩服の新兵器、黒い光線によって自由を奪われ、抵抗しないまま、こうして捕まってしまった。
 しかも手ひどい虐待を受けた。
 やってきたのは利根崎という金髪軟弱男。彼はハジメの顔といわず腹といわず、銃の台尻で何度も執拗に殴りつけた。リアルの居所を白状させるんだと表向きはもっともらしい理由を仲間に告げていたが、実のところ、大学で恥をかかされた恨みを晴らしたかっただけなのだ。
 プラズマ放射装置を浴びせられっぱなしのハジメは、金髪頭に反撃することもリアルパワーで防御することもできなかった。
 そのプラズマの放射が、今はストップしていた。水浸しのせいで電源がショートしたのだ。装置は黒い筒先を向けたまま、無用の長物と化していた。
 身体じゅうの痛みが急速に消えていく。リアルパワーが復活したことの証しだ。
 ハジメは腕に力を込めて鎖を引っ張った。最初のひと引きでコンクリート壁にヒビが入り、白い破片が水の中にぱらぱらと落ちた。再度、肺一杯に息を吸い込み、気合い一閃、背後の壁を蹴ると、鎖は根こそぎ壁からもぎ取れた。
 鉄格子のあいだからしみ込んでくる水は膝の高さまでに達していたが、それ以上に増える気配はない。部屋には窓がないので、外の様子はうかがえず、ここがどこの何階なのかも皆目つかめない。
(それにしても、この水は何だ? ……とにかく逃げるが先だ)
 ハジメは腕に填められた鉄の輪を引きちぎり、すっかり充電したリアルパワーで鉄格子を歪め、部屋の中央へ歩み出た。冷たい水が足にからみつく。
「……誰か……救援を乞う……」
 思いがけず、テーブルに放置されていたレシーバーから、切迫した男の声が流れてきた。ハジメは迷ったが、レシーバーを取り上げ、耳に押し当てた。何か判るかも知れない。
「──どうした?」
 相手はすると早口でまくしたてた。
「……こちら地下四階、南階段。突然階上から湖水が押し寄せ、仲間の半数が流された。WIBAは沈み始めたのか?」
「落ち着け。リアルたちはどうした?」
「リアルぅ?」レシーバーの向こうで声が首を傾げた。「捕虜のなった小田切ハジメとかいう小僧を除いた他の連中は、同様に地下に向かったらしい。そんなことより──」
「ありがとよ」
 ハジメはレシーバーを水面に放り投げた。その目がプラズマ装置に寄りかかるように置かれた小ぶりの銃を捉えた。彼は行きがけの駄賃とばかりに、見かけより軽いその銃を尻ポケットに捩じ込んだ。
「いざという時、目に見える武器のほうが脅しが利く」
 扉の外は左方向にだけ廊下が延びていた。どん詰まりの部屋だったのだ。正面の壁にデカデカと裏文字で『B1F』と書かれていて、下に小さくWIBAと併記されている。
「俺はWIBAの中にいたのか」ハジメはしげしげと首を巡らせたが、グレイがかった壁と水の廊下が取り囲んでいるだけだ。「とにかく行き先は地下だ」
 ハジメは水の上を歩き出した。こうしているうちにも水位はどんどん下がっていく。
 レシーバーの男は、上の階から水が押し寄せたようなことを言っていた。やはりWIBAが沈みかけたか、あるいは傾くぐらいのことは起こったのだろう。
「だいたい水の上に街を浮かべようなんざ、初めっから無理な話なんだ」

 むんは顔に落ちる水を払いのけると、手早く長い髪を後ろに梳き上げた。髪も身体もぐっしょりと濡れそぼっている。
 身体の震えがまだ治まらない
 あれほど大量の水が、しかも階段の上から襲いかかってくるなどと、誰が予測し得ただろうか。下の階にばかり注意を払っていた迷彩服や中村の仲間たちは総崩れとなり、まるで車のウィンドウに落ちた枯葉のように、声を出す間もなくほとんど一瞬のうちに押し流されていった。
 むんと炎少年は運良く非常扉のへこんだ所にひっかかり、滝のような洪水に対して、精一杯踏ん張って抵抗した。
 洪水は数分もすると勢いを弱め、やがてするのは雨だれのように滴り落ちるしずくの音だけになった。
 ガガガ。炎少年のスピーカーが聞き慣れないノイズを発した。
『……マズった。……大事なパーツが……濡れちまったぜ……ガガ』
 車椅子のモーターが水を被って回らなくなったらしい。一時は水位が少年の胸元まで達したのだから無理もない。
「ダメ?」
『無理だな。これじゃガラクタ同然だ』
 実際は誰かが後ろから押せば、通常の車椅子のように少年を運ぶことができる。しかし自走できないことは彼のプライドが許さないのだろう。それ以前に、階段を降りていくことができない。ここまで来れたのはハイテク車椅子の底部にあるキャタピラのおかげだ。
 それが使えないとなると状況は厳しい。
 母親の最期を看取った少年は、身体を動かす兆候を見せた。しかし麻痺を脱出するほどの奇跡が訪れたわけではなく、少年は元のもの言わぬ人形に戻ってしまった。
 いや言葉は脳に接続した車椅子搭載のコンピュータから溢れるほど出てくるのだが。
「降りて」
 むんは少年を座席に固定しているベルトを外しにかかった。
『どうすんだよ?』
「わたしがおぶっていく」
『みっともねえ! 俺は赤ん坊じゃねえぞ』
「転送装置に乗りたかったら我慢しなさい」
 言い聞かせるような口調に、少年は口をつぐんだ。
 しかし、子供とはいえ全身麻痺の人間を背負うのは骨が折れた。小さな頃から亡き弟を背中に乗せる機会が多かったむんは、どうにか少年の身体をおぶると、車椅子から引き抜いたベルトでふたりの身体を固定した。
 脳とコンピュータをつなぐケーブルに手をかけたところで、少年が待ってくれと叫んだ。
「なぁに? 外すと命に関わるとか?」
『命に別状はねえ。ただ接続が切れると、俺の目と耳と口がなくなる。暗闇はご免だ。ヘッドレストの裏に差し込んである携帯電話を代わりにつないでくれ』
 予備のインタフェースユニットらしい。言われるとおりにすると、少年の声が携帯に移った。
『コイツを頭に巻いた脳波増幅ユニットに挟んでくれ。……よし、これで完璧だ。いつでもいいぜ』
 開き直った炎少年はむんの耳許で号令をかけた。むんはバランスをとりながら、一歩ずつ階段に近づいていった。心の中で親友の名を呼びながら。
(萠黄、もうちょっと待っててな)

 誰かの声を聞いた気がして、萠黄は正気を取り戻した。
 萠黄は球状の黒い構造物、真佐吉が言うところの〈リアルボール〉の上にしがみついていた。よく落ちなかったものだ。
「勘弁してくれーーーっ」
 悲鳴がまた聞こえた。萠黄はぼんやりする頭をひと振りして顔を上げた。
 エンジェルフォールは放流を止めていた。空中にたれ込める霧はレースのカーテンのように視界を覆い尽くしている。
「ひーーーっ」
 その声には聞き覚えがあった。ネット配信された漫才映像で萠黄を何度も笑い転がし、床の上でのたうち回らせた伝説の男。
「雛田さん!」
 わぁーーーっという絶叫とともに、ひとりの男が背広の上着をはためかせながら落下してきた。


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