Jamais Vu
-298-

第21章
エンジェルフォール
(15)

 真佐吉はまるで公園を散歩でもしているような、そんなくつろいだ歩きかたをしている。左手を腰にあて、右手は波打つ髪をしきりにかき上げながら。そして痩けた頬を横に広げて人を食ったような笑みを浮かべながら。
 萠黄の中で、緊張が極限にまで高まった。
 相手は、人類史上最大にして最低の科学者。
 場所は、宇宙の爆心地となるかもしれないWIBA最深部の巨大競技場。
 時は、鏡像宇宙、つまりはヴァーチャル世界の誕生から十二日目。残された時間は、あと二日。
 偶然とは恐ろしい。自分みたいな平凡で取り柄もない人間が、こんなとてつもない状況に置かれるなんて。
 どっしりと背中に重たい荷物を背負わされた気分だった。自ら志願したわけでもないのに。
 一体自分なんかに何ができるというのか?
 何もできはしない。おそらく。ここまで自分を誘い込んだのも、真佐吉の悪戯心のなせる技だろう。御しやすい女の子。それが自分だ。よく知ってる。
 この世界では萠黄は超人だが、相手だってリアルだ。自分のリアルパワーが通じるとは到底思えない。
 ならば、せめて文句のひとつやふたつ、いや十も百も叩きつけてやろう。関西弁でぶちまけてやろう。それで真佐吉の気持ちが揺らぐなんてことは万にひとつもないだろうが、やるしかない。できることはそれくらいのもんだ。
「萠黄さん。私が伊里江真佐吉だ。どうかね、私のリアルボールは? なかなか美しいだろう」
 真佐吉は生声で話せる距離になったところで足を止めた。一応は萠黄に対する警戒心があるのか。
〈リアルボール〉とは黒い構造物のことらしい。萠黄は質問を無視した。
「あなたがホンモノである証拠は?」
「君にはどう映るね?」
「………」
 真佐吉は自信ありげに腕を組むと、再び萠黄に向かって足を踏み出した。
 その足がブレた。萠黄は疲れ目かと思い、目をこすりかけたが、その手を止めた。ブレがどんどん広がっていく。と見る間に真佐吉が三人に増えていた。どれも同じ格好、同じ足取りで迫ってくる。
「ちょい待ち! 立体映像なん!?」
 三体の真佐吉はニヤニヤするばかりで答えようとせず、なおも接近してくる。どの真佐吉も人工芝に影を落としている。芝を踏む音さえもっともらしく聞こえる。
 萠黄はあわてて両手を腰に構え、勢いをつけて前に差し出した。彼女の左右につむじ風が起こり、真佐吉に対して吹きつけた。
 枯渇したリアルパワーでは、風の勢いは強くなかったが、煽られた真佐吉たちは「わあっ」と声を発して芝の上に転倒した。その様子がいかにもわざとらしかったので、萠黄には三人の中に実体がいるのか、三人とも立体映像なのかは判別できなかった。
「ひどいな」「まいったね」「いきなりご挨拶じゃないか」
 てんでバラバラに立ち上がる真佐吉。その姿はまた分身して、都合六体に増えていた。
 相手をしていても無駄!
 萠黄はリアルボールに向き直ると、骨組みを握り、足を引っ掛けて赤道あたりの位置に取りついた。
「それ以上こっちに来たら、これを壊すよ!」
 真佐吉たちは一斉に立ち止まった。互いに顔を見合わせている。すると、ひとりが隣りの真佐吉に覆い被さった。ふたりの真佐吉は合体すると、倍の背丈になった。
 さらにもうひとりが被さり、また大きくなる。被さる。大きくなる。六体が合体を終えた時、巨大化した真佐吉の頭は遥か天井に達していた。
「萠黄さん、壊すなんて無理だよ」
 まるで雷鳴のような声だった。萠黄は呆然と眺めるしかなかった。
(……最初からホログラフィ映像やったんか)
 真佐吉はぐいっと腰を折って、萠黄に顔を近づけた。
「君には無理だ。まだリアルパワーはほとんど充電されてないじゃないか。リアルボールはそんな君に破壊できるほどヤワじゃないよ」
 先ほどの風攻撃ですっかり見抜かれている。萠黄は唇を噛んで骨組みを睨んだ。今の萠黄には、骨組み一本曲げるのも一苦労だろう。
「私が何のために、君を懐かしの部屋に案内したか、教えて上げようか?」
「………」
「君にとっては思い出すのも切なくつらい場面が続いたはず。そして最後には追いつめられたあげく、リアルパワーを全開にして、まるまる1ブロックを破壊してくれた」
 萠黄は厳しい表情を作って真佐吉に向けた。
「──そうか。パワーを搾り取って、すぐには使えないようにするためやったんやね」
「フフフ、それもある」
「それも?」
「君が発散したエネルギーは、丸ごと回収させてもらったよ。君はきれいに使い果たしたことで、爆発するまでの期限が延長されたと考えたかもしれないが、甘い甘い。ごらん、ここを」
 真佐吉は大きな手を動かして、清香の向こう側にある透明のケースを指さした。中にボーリングの球のようなものが入っている。
「君のエネルギーだ。これが君の代わりに最低限の仕事をしてくれる」
 真佐吉は胸を反らすと大声で笑い出した。その声が競技場にわんわんと反響した。
 萠黄は全身から力が抜けていくのを感じた。あまりにも巨大な真佐吉の前に、虫けらのような自分。どうあがいても敵うはずはなかったのだ。
「──もうひとつ教えて上げよう。君をここまで導いた行先表示には何と書かれてあったかね?」
「……エンジェルフォール」
「そう、エンジェルフォールだ。君はこの名から何を想像したろうか?」
「……南米の滝」
 もはや萠黄は問われるままに答える人形になっていた。
 真佐吉は満足そうに大きな首を頷かせた。
「南アメリカ大陸、ギアナ高地にある最大のテーブルマウンテンから流れ落ちる滝だね。落差は1キロ近くあるという。──実はここが、この場所が、WIBAのエンジェルフォールなんだよ」
「──?」
「見せてあげよう、これだ」
 真佐吉の姿がブルッと乱れると、そのまま掻き消えた。
 代わりに競技場の袖から巨大スクリーンがせり出してきた。画面には、WIBAを横合いから見た図が表示されている。
 続いて、ズズズという地響きが起こり、空気が振動した。萠黄は振り落とされまいと、骨組みを伝って、さらに上に昇った。
 地鳴りのような音は一向に止まない。萠黄は両腕を骨組みに絡めて身体を安定させた。
「スクリーンをよく見ていたまえ!」
 真佐吉の声が促す。言われて視線を上げた萠黄は、思わず目を瞠った。
 WIBAの図には喫水線が青く描かれている。今そのラインが少しずつ上昇し始めているではないか。いや、WIBAのほうが沈んでいるのだ!
「ど、どういうこと!?」
「ハハハ、地下一階と地下二階のベントを開いた。いま地上の階段口から、どんどん湖水が流入している」
「WIBAが沈むやん!」
「まさか。これがエンジェルフォールを生むんだよ」
 萠黄は理解できず、ひたすらスクリーンを見守った。
 すると彼女の足許で、今までとは違う、もっと直に響いてくる振動音が聞こえてきた。
 腕はそのままで顔だけを向けて覗き込むと、床が動いているのが判った。
「落ちるんじゃないよ」
 競技場はWIBAの〈底〉ではなかった。アリーナはいま十二分割された三角形になって外側へと引き込まれていく。そしてアリーナの下には、ぽっかりと空いた暗い穴が現れた。
 アリーナの底が開き切ると同時に、穴の中に、上から順番に輪のようなライトが灯った。
 萠黄は恐怖に凍りついた。自分を乗せたリアルボール、黒い正二十面体は、中空に浮いていたのだ。
(透明な線で吊るしていたのは、このためか!)
 萠黄の目が、穴の側壁に無数に取り付けられた羽根車を捉えた。何だアレは?
「さあ画面を見ていたまえ」
 スクリーンは分割画面となり、水の流れ込んだフロアの各所を映し出していた。真佐吉を探して潜り込んだ迷彩服たちが映っているものもある。
 彼らは逃げ惑っていた。逃げる後ろから洪水のような水が押し寄せ、彼らを次々と飲み込んでいく。
「バカだね。ハハハ」
 真佐吉は軽薄な笑い声を立てたが、萠黄は心臓をわしづかみにされた思いがした。むんや久保田らもこの中にいるかもしれないのだ。
「ううう……」
 なす術がない。歯を食いしばって見ているしかない。
「さあ、いよいよエンジェルフォールの誕生だ」
 その言葉を合図に、天井の一部が動き、ぐるりと円形に細い口が現れた。そして間を置くことなく、そこから大量の水が流れ込んできた。水は萠黄を乗せたリアルボールのそばを通過し、遥か下方に落ちていった。
 驚くほど大きな流水音。萠黄は丸い滝の中にいた。
 見おろすと滝の水が羽根車を勢いよく回している。
「気づいたかい? エンジェルフォールとは水力発電所のことなのさ」今や真佐吉の舌鋒も得意の絶頂である。「ここで生まれた莫大な電力が、リアルの起爆装置を動かしてくれるって寸法なんだよ。素晴らしいだろう。これは君が円形劇場で出会った数百人の男たち、彼らの労働力の賜物だ」
 流れ落ちる水の中から声が聞こえた。押し流され、落下していく迷彩服たちの悲鳴だ。
(……ひどすぎるっ)
 滝が発生させた霧が辺りに立ちこめてきた。萠黄は朦朧とする意識の中で、むんや久保田の名を呼んでいた。

「くそっ、なんだよ、この水はよぉ!」
 柊は流れ込んできた湖水を逃れ、必死に廊下を駆けていた。扉を開けては廊下へ、また開けては廊下へ。
 彼はあの時、閉じようとしたカプセルから萠黄によって救われ、その後、半ば麻痺した身体で抜け出すと、探索する男たちの手を逃れ、命からがらここまで逃げてきたのだ。
「どっかに階段かエレベータはないのか! ──ワッ」
 何かにつまずき、彼は激しく転倒した。
「痛ってぇ──ン? 何だコレ?」
 柊は自分が蹴つまずいた物体を、目を丸くして見おろした。
 彼が思わず、ナン(インドなどで食されるパン)を連想した。白くてむくむくとしたものが廊下の向こうから長々と横たわっていたのだ。あちこちに黒く焦げた痕があり、そこからイヤな臭いを発していた。
「気持ち悪いな」
 柊は足でぽんと蹴った。すると白い物体の先端がズズズと動き、裸の男の上半身が現れた。
「──ま、真崎さんじゃないですか! どうしてこんな格好で」
 柊は駆け寄った。すると真崎は仰向けに倒れたまま、顔を横に向け、
「………ひい…らぎ……この……役立たずが……」
「ナ、ナニ言うんですか。俺はアンタの言ったとおりに動きましたよ。ちゃんと最後のリアルは野宮助教授だってデマも流したし──ちょっとした手違いはあったかも知れないけど」
 あの夜、琵琶湖大橋のたもと、観覧車の前で柊が出会ったのは真佐吉ではなく、真佐吉に化けた真崎だったのだ。真崎はおのれがリアルであることを示し、柊が真佐吉に持ちかけるつもりだった話で柊と契約した。つまり、自分の言うままに動けば、真佐吉を倒した以後の世界は好きにして構わないと。
 真崎の腕が柊の足首をつかんだ。柊は真崎の裸の背中を見て卒倒しそうになった。焼けただれた皮膚が再生しきれずにブヨブヨとうごめいていた。
 柊は逃げようと後じさりしたが、真崎が放さず、廊下の上に滑るように倒れた。よく見ると彼が足を取られたのも、真崎の身体からはがれおちた白い皮膚だった。
 驚くままに真崎に顔を戻した柊は、さらに恐怖に顔を引きつらせた。ナンのような物体は、真崎の下半身だったのだ。
「ひ、ひえ、放せ、放せよ!」
「………許……さん………」
 言葉が終わらぬうちに、焦げ目のない部分がタコ足のように伸び上がったかと思うと、柊の上に覆い被さった。
「ワッ、た、助けてくれーーーっ!!」
 その悲鳴は誰の耳にも届かなかった。


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