Jamais Vu
-297-

第21章
エンジェルフォール
(14)

 萠黄は(ここや)と思った。
 直感が、こここそWIBAの最奥部、そして自分が目指すべきゴールだと確信した。
 開いた扉の向こうには、これまでに通ってきた中で、最も広い空間が待ち受けていた。
 広さは阪神甲子園球場と同じくらいくらいか。中央には正十二角形のアリーナがあり、頂点同士を結ぶ直線がカラフルで鮮やかな幾何学模様を描いている。
 萠黄は着ている白無地のTシャツを指で伸ばしてみた。WIBAに渡る前、近江八幡の打ち捨てられたコンビニで手に入れたものだ。あちこちに破れが目立ち、ほつれ、全体に黒ずんでいる。はきっぱなしのジーンズも靴と同様よれよれだ。
 でも一番のよれよれは萠黄自身かも知れない。途中で見つけたトイレで鏡を見ると、無惨なほど髪はぼさぼさ、肌はざらざらだった。リアルパワーを一気に吐き出してしまったせいで、充電中の今、身体の回復にまわす余力はないようである。
 それだけにこの空間の美しさを前にして、のこのこ前に出ていくのがためらわれた。
 アリーナの周囲は低い壁で囲われ、その外側にはぐるりと階段のような観客席がめぐらせてある。先に連れ込まれた円形劇場の大型版だ。萠黄はその中腹にいた。
 アリーナに目を戻す。凝らした目が、正十二角形の中心に置かれた黒く丸い構造物を捉えた。構造物には、木になった林檎のように、透明で丸いものがいくつもぶらさがっている。
「──!」
 萠黄は自分の確信が正しかったことを知った。
 その球体こそ、真佐吉がリアルを封じ込めるために使用したカプセルだったからだ。
 萠黄は階段を駆け下りると、アリーナ外周の壁に身を乗り出した。下を覗くとアリーナまでは数メートル。どこかに階段はないかと探しかけて、
(アホやな、わたし。飛んだらええやん)
 ひとり頷くと、すぐさま手すりを蹴ってジャンプし、ふんわりと幾何学模様の上に着地した。
 周囲に人影はない。聞こえてくるのは空調の音くらいで、物音ひとつしない。
(でも真佐吉さんはどっかで見てる)
 萠黄は油断なく目を動かし耳をすませながら、ゆっくりと黒い構造物に歩を進めた。一気に距離を詰めて、罠でもあったら困るというように。
 靴の裏がやわらかな感触を伝える。アリーナに敷かれているのは人工芝だ。するとここはやはり球場なのだろうか?
 構造物が目の前に迫った。
 萠黄は、嗚呼とため息をついた。
 清香がいた。齋藤もいる。ふたりとも透明な楕円体の中で、背中を見せて横たわっている。他にも十個の透明カプセルが吊るされているが、どれも空だった。
「清香さん! 齋藤さん!」
 萠黄は両手を口にあてて呼んでみた。しかしどちらもピクリとも動かない。例の催眠ガスが効いているのだ。しかし同じく捕まっていた柊はどうしたのだろう。
 黒い構造物は正二十面体をしていた。カプセルは構造物の十二個の頂点に組み込まれている。カプセルを中心から等距離に配置するためだ。黒い骨組みは複雑に絡み合いながら、中心部へと収束している。そこにはひと抱えほどの漆黒の球体があった。黒い骨組みがウニのイガのように突き立っている。骨組みを逆に追いかけていくとカプセルに行き当たる。骨組み自体は存外に細い。鉄骨ではなくFRP製かも知れない。
「真佐吉さん!」
 萠黄は腹に力を入れて、敵の名を呼んだ。
「お望みどおり、やってきてあげましたよ。あなたもそろそろ実物の姿を見せたらどうですか?」
 萠黄の声は反響もせず、広い空中に吸い込まれていった。
 焦りも憤りも抑え込んで、萠黄はじっと待った。
 一分。二分。依然反応なし。
 萠黄は全身を耳にしたまま、ゆっくりと構造物の周囲を巡ってみた。カプセルの数の十二は、この世界に送り込まれたリアルの数。すでに半分近くが命を落としている──。
「ん?」
 空中で何かが光った。萠黄は足を止め、目を細めながら後ろ向きに下がった。
 蜘蛛の糸のような細く透明な線だ。それが一方は構造物の間を縫って黒い球体に繋がっている。もう一方は──たどっていくと、どうやらほぼ鉛直状の丸い天井まで伸びているらしい。
 萠黄は人工芝に顔をくっつけてみた。
(床に接してない。ミラーボールみたいに天井から吊り下がってる……)
 カタンと遠くで音がした。萠黄は強張った顔を上げた。
 扉が開いている。萠黄が入ってきたのとは真向かいの場所だ。人影が差した。
「待たせたね」
 朗々とした男の声だった。
「真佐吉さん」
 人影は小さかったが、和歌山で伊里江真佐夫に送られてきた画像に瓜ふたつの人物であることはすぐに判った。
「ようやく会えたね」
 真佐吉は悠々たる足運びで階段を一段一段降りてくる。声はマイクを通じてスピーカーで拡声されている。
 客席の最前列まで来た時、真佐吉は腰を屈めた。そして両腕を天井に向けて伸び上がると、すーっと身体が宙に浮かび、そのまま緩やかな弧を描いてアリーナの上に着地した。
 こちらに近づいてくる。ジージャンもサングラスも、そして風になびいたような長髪も写真のままである。
(いよいよ、ホンモノ……?)


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