Jamais Vu
-296-

第21章
エンジェルフォール
(13)

 久保田は周囲に注意を払うのも忘れ、煤ぼこりを蹴立てて交差点に突進した。左右に走る通路の左角から上半身が俯せになってはみ出している。不安が喉の奥から込み上げてきた。まさか──!
 しかし近づくに連れ、不安は一時棚上げされた。そこにあったのは上着のジャケットだけだったのだ。
 ふいに予告もなく、右側から監視ロボットが現れた。久保田は「しまったっ」と両足に急ブレーキをかけた。その時、タイミングよく左の機械が、勢いよく黒煙を久保田の前に吐き出した。彼は左の煙突と煙突のあいだに狭い通路があるのに気づくと、躊躇せずその中に飛び込んだ。
 熱気が左右から押し寄せる。必死で我慢しつつ、通路に顔を出すと、幸いロボットは久保田に気づかなかったようで、ボディの両側から伸びた多関節アームが和久井のジャケットをつまみ上げようとしていた。
(和久井さんはやられたのか? しかしこんな短時間で砂状化はすまい)
 目だけを出して、ロボットの様子をうかがう。ジャケットは砂にまみれてはいなかった。
(上着を脱いで逃げたんだ。しかしどこへ?)
 街並のように並ぶ機械の高さは一メートルから二メートル。長身の久保田でも背伸びしたくらいでは見通すことはできない。
「ええい、ごちゃごちゃ考えとれん」
 久保田は目の前の機械に足を掛けて昇ると、爪先で伸び上がって街並の上を見渡した。目に煤が吹き付け、涙がイヤというほどこぼれ落ちる。それでも我慢して、入り組んだ通路に何か見えないかと目を凝らしていると、
(いたっ!)
 黒髪が揺れながら右から左へと駆けていく。久保田のいるところからは一筋ハシゴ側の通路だ。
 急いで機械を降りた。もう一度通路の左右を確認すると、最前のロボットはいなかった。ジャケットも放り出したままだ。生き物以外には興味がないらしい。
 久保田はいまその目で見た和久井の逃走ルートを、記憶の中の街並に俯瞰図に当てはめた。
「こっちか」
 見当をつけて右側にダッシュすると、すぐに右へ折れる細い通路が見つかった。巨体を斜にして飛び込む。汚れたダクトが行く手を邪魔する。久保田は敏捷な動きでそれらをかいくぐり、目星をつけた通路へと出た。
「和久井さん!」
 後ろ姿が見えた。彼女は振り返ると、真っ黒になった顔の上の目を丸くして久保田を見つめ、つんのめるように駆け戻ってきた。
 久保田の胸にしがみつく。両肩を抱えると小刻みに震えていた。
「無事でよかった。さあ、急ぎましょう」
「ハイ──こっちです」
 和久井と久保田は手を取り合って、もと来た道を引き返した。和久井の足取りにためらいはない。
「次の角を左へ、すぐ右、そして二つ目を左です」
 すでに逃走ルートを設定している。久保田は舌を巻いて、彼女の背中を追いかけた。
 和久井はそれでも慎重だった。角の手前で目だけ覗かせ、ロボットがいないことを確認して先に進んだ。
 左へ、そして右へ。
 最後に左に曲がる角に差しかかると、彼女は久保田に耳打ちした。
「ここを突き当たりまで行けば……すぐ左がマンホールです」
「オッケー、もうひとふんばりだ!」
「ハイッ、がんばりましょう」
 息も絶え絶えながら、互いに声を掛け合う。ふたりとも体力の消耗が著しかったが、これがラストランだと気持ちを奮い立て、上がらない膝をどうにかだましだまし前へ送り出した。
 ところが、最後の直線コースを半分まで来た時である。右側の何かの装置の一部が突然目覚めたように通路に出てきたのだ。
 久保田は目を見張って、足を止めた。
 それは監視ロボットだった。装置に張りついていたから見えなかったのだ。わざと身をやつしていたのか、スリープモードだったのは判らないが、いずれにせよふたりの接近に反応して動き出したのだ。
 ガーッと駆動音をあげながらこちらに近づいてくる。畳んでいたアームが伸びて、その先端が火花を発した。五十万ボルトだ。
「よぉし、こうなったら力づくの勝負だ」
 久保田が指を鳴らしながら前に一歩出ると、和久井は袖をつかんで止めようとした。
「待ってください。陽平さんが倒れたら、わたしには運べません」
「よ、ようへいさん?」
 久保田を下の名前で呼んだ和久井は、抱きつくような格好で彼を装置と装置の隙間に押し倒した。
「隙を見てマンホールに。わたしは後から行きます」
「あんた、何を──」
「いいですね。言ったとおりにしてくださいよ」
 和久井は振り返らずに監視ロボットに向かっていった。
「和久井さん!」
 彼女はロボットの手前で路地を右に折れた。ロボットはそのあとを追う。
 久保田は迷った。自分だけが逃げるなんて。
 路地を覗くと、懸命に駆けていく和久井の後ろ姿がロボットの向こうに見えた。
(やっぱり逃げるわけにはいかない)
 ただ、和久井の思惑が判らないので、追いかけたいところをぐっと我慢して、その場に足を止めた。
 和久井は路地の先、向こう側の通りに出ると、くるりと向きを変え、すぐ脇の装置に手をかけて昇り始めた。
(そんなことをしたって、逃げ切れるもんじゃ──)
 すると、向かいの通路から別のロボットが侵入してきた。これでは挟み撃ちではないか、状況が悪くなるばかりだ!
 久保田の足が地面を離れようとした時、二台目の監視ロボットに躍りかかるように、和久井の身体が設備の上から落ちてきた。和久井の上半身は──下着姿だった。
 久保田は目を丸くして、上げた足を地面に降ろした。
 和久井はジャケットの下に着用していた、これも迷彩色のシャツを飛び降りざまに、ロボットの上に被せたのだ。
 驚いたのはロボットも同様だったらしい。突然、動きが乱れ、迫りつつあった一台目のロボットの進路を妨害した。すると一台目のロボットはアームを伸ばし、二台目にスタンガン攻撃をかけたではないか。それも和久井のシャツの辺りに向けて。
 二台目もやられっぱなしではなかった。視界がおそらく見えないこのロボットは、手探りでやはりスタンガン攻撃を仕掛ける。周囲が激しい騒音の中で、二台のロボットの戦いが始まった。
(なんてこった。シャツだけで和久井さんだと勘違いしてやがる)
 気がつくと彼女の姿は路地から消えていた。いち早くロボットのそばを脱出したのだ。迂回してマンホールに行くつもりなのだ。
 久保田も二台のロボットから目を引き離し、マンホールへと急いだ。すると右から当の和久井助手も駆けてきた。彼女は久保田に気づくと、両手を胸の前で交差させた。
「見ないでください!」
 言われても久保田の目はそらすことができずにいた。ずっと白衣の下に隠れていた和久井の身体は、意外なほどヴォリュームがあることを見せつけられたからだ。
「は、その、すみません」
 久保田はマンホールの上に到着すると、まず先に自分のジャケットを脱いで和久井の肩に被せた。そしてマンホールの把手を握ると手前にぐいと引く。
 久保田は和久井を先に降ろし、次いで自分も蓋の内側の把手を握りながら、穴の中に身体を沈めた。
 最後に久保田が見たのは、怒りもあらわにスタンガンを放電させながら全速力で走ってくる監視ロボットの姿だった。
「あばよ」
 マンホールの蓋はぴったりと閉じられた。

「よくご無事で」
 柳瀬が久保田の手を取りながら涙を流した。情に厚い正義の戦士としては、なかなか降りてこないふたりを助けにいくべきだと主張していたが、揣摩に「もう少し待て」と止められ続けていたという。そんな揣摩も明らかに安堵の表情を浮かべていた。
「ここは?」
 久保田が訊ねた。白い壁の小さな部屋だった。それでも天井には何本ものダクトが走っていて、中を液体だか気体だかが流れているようだ。
 それでも上の空間と比べれば、天地のさほど快適な室温だった。久保田はようやくひと心地つける気がした。せめて一時間でもゆっくり眠りたい。
「単なるバッファゾーンのようです。あっちの通路を通れば」と揣摩は部屋の隅を指さす。「階下へと降りられる階段があります。もうムチャはせずにすむでしょう」
「そう願いたいな」
 久保田は和久井を見た。壁にもたれてぐったりとしている。
「お疲れさま、いや、ありがとう」久保田は礼を言った。「あんたに助けられましたよ」
 和久井はいいえと小さく言った。久保田のLLサイズのジャケットを着た彼女は非常に小さく見えた。
 久保田は彼女の横に腰をおろすと、
「よくあんな戦法をやろうと思いつきましたね。まるで敵の弱点を知り尽くしているようだった」
 すると和久井は少し微笑み、
「あのロボットはウチの──エネ研が開発に協力した機種なのです。だからどんな習性か、どこに目があるのか、知ってました……。生物としての痕跡は残さなかったから、我々のことは、真佐吉には報告されないでしょう」
 ホウと言って、久保田は唇をすぼめた。
「でも──怖かった」
 和久井は久保田の肩に頭を持たせかけた。久保田は彼女の肩に手を回した。
「ちょっと先の様子を見てきます」
 揣摩と柳瀬は気を利かすと、そう言い残して通路のほうに出かけていった。


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