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-294- 第21章 エンジェルフォール (11) |
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萠黄は両腕を裏返したり表にしたりと細かく点検した。それでも傷跡は全く見つけられなかった。 携帯電話を取り出し、時刻を確認する。忌まわしいあのニセモノ秘密基地を脱出して、まだ一時間しか経っていない。 「傷が癒えるのが速いのはうれしいけど、古傷は消えてくれへんねんなあ」 幼い頃に扉に挟んでできた、例の傷跡である。指先で傷の上をこすってみたが、何の変化もしなかった。 《だからって怪我しても大丈夫なんて、安心しちゃいけないよ》携帯からギドラが顔を出した。《携帯は壊したらそれまでだからね》 「ハイハイ、トラブルはなるべく避けろといいたいんでしょ?」 萠黄は軽く受け流し、 (素直に観念して、元の世界に送り返してくれたらええねん) 心の中で真佐吉相手につぶやいた。 萠黄はあれから何度か階段に行き当たり、降りられるだけ降りた。一気に最下階まで行ってしまいたいのだが、時たま現れる『↓エンジェルフォール』の表示に誘われるまま、右に左にと迷路のような廊下を進んで来たのだ。 他には一切の表札や地図のない地下深くで、たったひとつの行き先案内板。真佐吉が萠黄をそこへ連れて行きたがっているのは明白だ。 ただ、そこに何があるのかについては、説明は一切ない。『エンジェルフォール』という名前から想像するしかない。 (唯一、わたしの知ってるエンジェルフォールは……) 気がつくと、廊下の端にたどり着いていた。目の前には大きな両開きの扉。ニセ実家のところにあったのと似た鋼鉄製の扉だ。 「また何か用意してるんかな」 もう何を見ても驚くまいと心に決めていた萠黄は、開けようとした手の平を止めた。そして一歩後ろに退き、ごくりと唾を飲み込んでから、扉全体を眺め渡した。 乱暴に塗りたくられた赤茶色のペンキ。厚みのある大きくて丸っこい把手。それは萠黄の記憶を呼び覚ますのに十分だった。 かつて猛獣のように牙を剥いて萠黄の手に噛みついた体育館の扉。それにそっくりだったのだ。 萠黄は驚いたが、それ以上に驚いたのは自分の中の心臓の鼓動が、まるで三倍速になったようなリズムでどくどくと打ち出したことだった。心以上に身体のほうがトラウマを記憶していたのだ。 「落ち着け、落ち着け」言い聞かせながら胸の上を両手で押さえる。「これも単なる意地悪な仕掛けだ。わたしの小さい頃の体験を調べて、治療してもらった病院のカルテデータにアクセスして、怪我をした学校の体育館の図面をどこかから引っ張り出してきて……なんでそんな手間のかかる意地悪をすんのかなーっ!」 動悸は治まってきたものの、代わりに怒りがふつふつと込み上げてくる。 「おかげで一生消えへん傷が……あれ?」 萠黄は右手の甲に目を奪われた。古傷がまるで霧の中のランプのように、黄色い光で鈍く明滅している。 (何が起きてるん?) 左手の指をそっと近づけてみる。古傷の上をそっと人差し指の腹で触れてみる。熱い。しかも静電気を帯びたようにピリリと刺す感触があり、妙に快感を覚える。 さらに力を込めてこすってみた。さっき懐かしみながらやったように。すると光が強くなり、温度も高くなったようだ。それでもこすり続ける。 一分ほどが経過したろうか。光は徐々に弱まり、熱も冷めてきた。 「──あ? ああ! あああああ!!」 萠黄は信じられない思いで、手の甲を凝視した。 つい今しがたまであった古傷が消えていた。光も熱もなくなって、指で触れても、あった場所を特定できなくなった。 「これもリアルパワーなんか……もしかしてリアルが操れるのは、空気とかガスとか、そんなんだけとちごたんか……」 傷のなくなった手はまるで自分の手ではないようだった。萠黄はその手で自分の顔を包み、 「ひょっとすると、リアルパワーで美容整形もできたりして……外科手術の不要な整形って宣伝したら、お客さんがワンサカやってきて、たちまちわたしは大金持ち……」 《アハハ〜っ》ポケットの中でギドラが軽薄そうな笑い声を上げた。《面白いね、それ》 「冗談よ」 萠黄はジーンズの上から携帯を小突いた。 《でもさ、どうして急にそんなことができるようになったのかな》 携帯本体はポケットの中でも、立体映像は服の上に顔を覗かせることができる。ギドラの三本の首がポケットの上に生えたキノコのようにユラユラと揺れていた。 「気持ち悪いなあ。──でもこの扉のせいみたいやね。昔のことを強烈に思い出させてくれたもん」 言いながら萠黄は扉を見つめ直した。記憶が蘇ったときはゾッとしたが、こうして大人の感覚で向き合うと、イヤな想い出は消してしまうのではなく、仲良くなればいいじゃないかという気がする。それだけ年月が経ったのだし、あの怪我のおかげで、むんというかけがえのない親友を得られたからだ。 この扉はそんなことまで想定して用意されたのだろうか。 (まさか、ね) 萠黄はもう一度手の甲に目を落とし、傷のないことを確かめると、その手を前に出し、すっと扉を開いた。 八つの眼球が横一線に並んでいる。視線はどれも十メートル下に広がる機械都市に注がれている。 「あそこネ」 柳瀬の指先、ハシゴから真っ直ぐ進み、二つ目の角を右へ折れ、すぐまた次の角を左に折れた床面。そこに円形の蓋が見える。 「ハシゴ下を出発して、所要時間は三十秒くらいか」 久保田が言うと、 「いや、二十秒あれば十分ですよ」 揣摩が自説を主張する。 「でも」柳瀬が額の汗を拭いながら、「こんなに監視ロボットがうろついてたら、十秒ともたないんじゃないかしら」 四人はいよいよボイラーのように熱い機械室を抜けるため、最後のハシゴを降りようとしていた。 ここに至るまで、恐ろしく高い空間を、いくつものハシゴを降り、ようやくたどり着いたのだ。 しかし最後に難関が待っていた。広大な機械室は上から見る限りでは模型の街と見まごうほど煙突や各種熱処理システムが並んでいる。つまり機械と機械のあいだを入り組んだ通路が迷路のように走っている。データを調べた結果、最短距離で機械室を抜けるには、監視ロボットの目を盗んで、あのマンホールの穴をくぐらなければならない。 ロボットは異常音や侵入者を検知すると猛スピードでやってくるのだと宝井社長は言ったという。ふだんは決められたルートを移動しているだけなので、うまく隙を突くしかない。 「その決められたルートが判らないんだなあ」揣摩が最後の踊り場となった五メートル四方の鉄板の上にごろんと転がった。「うわっ、熱い!」 「シーッ」 久保田が口の前で指を立てる。 「行けます」ぼそりと和久井助手が言った。暑い中、同じ迷彩服を着ていても、彼女だけは暑さに強いらしく、さほど汗ばんでいない。「監視ロボットの行動パターンが読めました」 「さっすがーっ」 揣摩が小さく拍手したが、和久井は表情を変えず、 「合図とともにハシゴを滑り降りたら、二つ目の交差点まで走ってください。そこで三つ数えてから角を折れます。そのまま進み、すぐの角を五つ数えてから左へ曲がります。マンホールの蓋は中央立てに割れ目があって両側に開くタイプです。開けて中に降りたら、すぐに閉じてください」 「………」 「てことは、ひとりずつ行くしかないのか」と揣摩。 「ワタシから行くワ」 柳瀬がハシゴに向かった。 「気をつけて」 久保田が真面目な声で言うと、柳瀬はくるりと振り返り、 「そうそう、監視ロボットは侵入者にどんな攻撃をしてくるの?」 揣摩がすぐ小型パソコンで調べた。 「五十万ボルトの電流だそうだ」 「まあコワい」 笑いながら言うと、柳瀬は階段に手をかけた。 和久井が下を覗きながらタイミングを測る。 「──今です」 |
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