![]() |
-293- 第21章 エンジェルフォール (10) |
![]() |
着ていた迷彩服はパンパンに張った身体によって破り裂かれた。そうか、それで別の人の服を借りないといけなかったのかと、むんは納得した。そして今この状況が自分たちにとって悪い方向に膨らんでいることに気づいた途端、むんはシュウの腕をつかんで叫んだ。 「撃って! 早く!」 シュウは夢から醒めたように銃を構え直した。それでも引き金を引く決心がつかないらしく、銃口を下げると、 「真崎さん!」 と叫ばずにはいられなかった。 「ひゅー(シュウ)」白いアドバルーンが口を開いた。その口の位置さえどこだか判然としない。「ひゃまをふるな(邪魔をするな)。ふすはらひあうをふへ(撃つならリアルを撃て)。はおはいほ(さもないと)……」 言葉はゴボゴボという泡立つ音に掻き消され、それが合図になったように、真崎の腕だった部分が角のように左右に伸びた。 見た目はやわらかそうな二本の腕は、まるでタコの足のようにしなると、ふいに倍の長さに伸び、むんたちのほうへと襲いかかってきた。 ズンッ。床が腕の形にめり込んだ。こんなもので殴られてはひとたまりもない。 「みんな、逃げなさい!」 むんが喉が振り絞って叫ぶと、若者たちはいっせいに階段に取りついた。しかし真崎のタコ腕は容赦なく伸び、昇り階段に先回りするようにへばりつくと、逃げ道を断った。 シュウは雑念を捨てるように雄叫びを上げると、階段でうねうねと動く太く白い物体を撃った。しかし銃弾は鈍い音を立ててめり込むと、すぐにはじき返され、階段の上に転がり落ちた。 「くそっ、効かないのか!」 シュウが連れてきた隊員たちもマシンガンを撃ち込んだ。それでも銃弾はことごとく受け止められ、パチンコ玉のように階段に散らばった。 ぬおーっと化け物は吠えた。もはや手足の区別はつかなかった。髪の毛は埋没し、首だった位置も判らない。ただ目や口だけがそれらしきくぼみを作っているに過ぎない。 化け物はのしかかるような威圧感で進撃を開始した。進む先には炎少年がいた。化け物のターゲットはあくまでリアルなのだ。 むんは車椅子の後ろに回ると、引き動かすべく力を込めた。だが車輪はロックされたようにがたがたと揺れるばかりだ。 『やめろっ、俺は逃げない!』 むんの目は彼の足許に倒れている母親を捉えた。 「君は──」 言いかけた時、視界に影が差した。壁のように伸び上がった化け物が、天井の明かりを遮ったのだ。次の瞬間、化け物は炎とむんの上に覆い被さってきた。 明かりが消えた。何も見えない。 すぐに呼吸も苦しくなってきた。 (そうか、狙いは窒息死か!) のしかかった化け物の身体はなま温かく、そして布団のようにやわからい。むんがいくら両手で持ち上げても、隙間を見つけてスライムのように入り込んでくる。そればかりか、むんの全身に密着し始め、もがけばもがくほど身動きができなくなっていく。隣りの炎も何か叫んでいるが、やはり動けずにいる。 (なぜこんな芸当ができる? 細胞を拡大してるんか、それとも増殖させられるのか。ああ、ホンマに息がでけへんようになってきた) 圧迫された肋骨が軋み、苦痛に顔が歪む。 まさにあと一押しでぺしゃんこにされる──。 そう思った時、突然に怪物の身体が波打った。 床との隙間に明かりが射し、空気がすうっと入ってきた。と、化け物はむんの身体を放り出した。 床に転がったむんは、何が起きたのか判らないまま、必死になってしぼんだ肺に酸素を送り込んだ。 むんの髪をいきなり熱風があおった。 見上げた目に飛び込んできたのは、少年の名前ではない、本物の炎だった。燃えている。なんと化け物の身体が燃えていたのだ。 むぉー、むぉーという耳を覆いたくなるような化け物の咆哮が谺する。白い巨体から立ちのぼる火は化け物が動けば動くほど勢いを増していく。白い皮膚が焦茶色に変わっていく。どうやら化け物の弱点は、この火だったらしい。 形勢は逆転した。しかし喜んではいられない。激しくのたうつ化け物の身体は、壁や天井にぶつかるたびに床に亀裂を走らせ、液晶パネルを砕く。 さらに逃げ惑う人々の上に長いタコ腕が落ちようとした時、鞭のように伸びた火線がタコ腕に巻き付いた。 「伊里江さん!」 むんは階段の踊り場に伊里江の姿を見つけた。片手を左右に振り回し、縦横無尽に火の鞭を操っている。もう一方の手に握られているのは百円ライターらしい。誰かに借りたのだろうが、それだけでこの強力な化け物に対抗できるとは──。 「ヤルやんっ」 真崎だった化け物はたまらずフロアの奥へと逃げ出した。燃え盛る炎はほぼ全身を包んでいた。 身体が壁をこする音とも断末魔の悲鳴ともとれる騒音をたてながら、怪物は奥へ奥へと広い廊下を逃げていった。 伊里江は力尽きたように踊り場に倒れた。優れぬ体調で無茶をしたのだ。むんは駆け寄ろうと階段の手すりをつかんだが、 『おふくろ──』 という炎少年が聞こえた。 むんは二段飛ばしで階段を駆け上がると、ぜいぜいと呼吸を弾ませている伊里江の腕をとった。 「……むんさん……私は役に立ちましたか?」 「もうちょっとだけ役に立って!」 伊里江を無理矢理背中に担ぎ上げ、むんはよろけながら階段を降りた。あちこちにパネルの破片や砂などが散乱しているのでひどく歩きにくい。それでもどうにかフロアに到着すると伊里江を乱暴に滑り落とし、 「お願い、お母さんを助けてあげて。リアルパワーで」 母親は虫の息だったが、まだ生きていた。伊里江は青ざめた顔を彼女の撃たれた胸に近づけたが、 「……無理です。軽い外傷なら別ですが、これは──」 「──!」 むんは少年の顔を仰ぎ見た。サングラスの奥の目は閉じたまま、口はいつものように半開きで、彼の心の動きを何ら伝えてはいない。 「……ほ……」 「えっ、何ですか?」 むんは母親の頭を膝に乗せ、口許に耳を近づけた。フロアの隅で伏せていた雛田がその様子を見て「みんな、シーッ!」と、いる者全員に静粛にするよう促した。 「………」 (聴こえへん) むんは目を閉じて、がっくりとうなだれた。 しかし炎少年の高感度マイクは、そんな母親の最後の言葉をしっかりと聴き取っていた。 「炎。元の世界に戻って、向こうのわたしを安心させてあげてね」 「お……」 むんはハッとした。顔を上げると、炎少年の唇が開いていた。いま何か言おうとしたのではないか? トンッ。アームレストに置かれた指先がわずかに音を立てた。動いたのか? むんは母親の顔を見た。母親の瞳が輝いたように思われたが、すぐに光は失われ、静かに暗黒の帳が下りた。 |
[TOP] | ![]() |
[ページトップへ] |