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-288- 第21章 エンジェルフォール (5) |
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萠黄はウィルを追って廊下に飛び出した。 逆光でシルエットになったウィルが、リビングの入口で萠黄においでおいでをするように手を舐めている。 「逃げんでもええから」 萠黄は四つん這いになると、そのまま廊下を進んだ。ウィルとはよくこうして遊んだのだ。 あと少しで尻尾に手が届くというところで、ウィルはひょいと身体をひるがえし、ソファの間に駆け込んでしまった。そしてまた一声にゃおーんと鳴いた。 萠黄は立ち上がり、誘われるようにリビングへと入っていった。 「ああ……」 萠黄は両肩から力が抜けていくのを覚えた。予想はしていたが、予想以上の懐かしさが萠黄を包んだ。 リビングの光景は、十二日前に彼女が後にした時のままだった。 テレビはスイッチが入っていて、朝の連続テレビドラマを放送中だった。萠黄はリモコンを取り上げてチャンネルを変えてみた。どのテレビ局も通常の情報番組やドラマの再放送をオンエア中だ。リアルやヴァーチャルといった言葉の飛び交う特別番組など、どの局もやっていない。さらに当然のように画面に映し出される文字は全て〈正置〉だった。 テレビの時刻表時は、八時二十五分。この時間には母親はすでに出勤していない。食卓の上を見ると、紙切れが置かれている。萠黄はそばに行ってそれを拾い上げた。 『今日は遅くなりそうだから、夕飯は冷蔵庫の中のをチンして食べててね』 母の走り書きである。脇にはラップで包まれた皿。中味はまだ暖かい目玉焼き。 萠黄は母のメモに鼻を押しあてた。母のにおいをかぎとろうとするかのように。 かすかなざわめきが耳をくすぐった。とろんとした目をバルコニーに面したガラス戸に向ける。レースのカーテンを透かして外の光景が見える。 萠黄はカーテンを開き、さらにガラス戸も開けた。途端にアブラゼミの合唱が洪水のように押し寄せた。空は高く、陽射しはキツい。まだまだ夏なのだ。 六階のバルコニーの正面は、小高い丘になっている。そこをぐるりと巡る形で一本の道が伸びており、いろんな人が下りてきていた。 腕時計を睨みながら駅へと急ぐサラリーマン。子供を乗せて幼稚園に送るべく自転車を漕ぐ母親。マンガを広げながら遅刻覚悟で悠然と歩いていく男子高校生。平凡な朝の風景が眼前に展開している。 萠黄は自分がどこにいるのか、忘れそうになっていた。 ふとすぐそばで何かが動く気配がした。首をねじると、食卓の上で丸くなっているウィルがいた。 「コイツぅ」 萠黄はいつもの調子で首根っこをつかんでやろうと、ゆっくり腰をかがめて、ワッと手を伸ばした。 萠黄の手の平は虚空をつかんだ。 彼女の手はウィルの身体を素通りしたのだ。 ──立体映像。 萠黄は瞬時に状況を読み取った。 全ては作り物、まがい物、用意された物だったのだ。 初めから判っていたはずだった。なのにいつしか真佐吉の術中に陥り、ひょっとしたらという油断に相手のつけいる隙を生じさせ、見事なまでにその気にさせられてしまったのだ! 萠黄は食卓の置き時計を右手に持ち、バルコニーに出て、思いっきり遠くへ投げ飛ばした。 置き時計は道に届くまでもなく、空中で目に見えない壁に激突し砕け散った。道を歩く人々は誰も顔を上げようとはしなかった。 (これも映像……!) いつの間にか、ウィルの姿は消えていた。部屋の様子まで色褪せて見えた。萠黄は肩を怒らせて、一直線に玄関に向かった。再び涙が込み上げてきたが、今度は悔しさの涙だ。 靴を履き、玄関を飛び出した。萠黄はそこでウッと息を飲んだ。 さきほどの体育館ではなかった。自宅前の共用通路が左右に伸びていたのだ。正面の手すり壁の遥か下の線路を、いま近鉄特急が猛スピードで通過していく。 「いい加減にして!」 萠黄は足を踏み鳴らしながら、通路をエレベータのほうへと向かった。だが手前の階段まで来ると、気が変わり、階段を降りることにした。エレベータに乗ってこれまでいいことがあった試しがない。そんな思いが心をかすめたからだ。 階段に足をかけた時、萠黄は思わず首をひねった。さっきまではこんな階段などなかった。なのに立体映像でもなくちゃんと下に降りることができる。 (もしかしてさっきの体育館が映像???) このままでは自分の目が信用できなくなる。これからは触ってみないと、と自分を戒めた。 ひとつ下の階も萠黄のマンションの体裁で両側に扉が点々と続いていた。気まぐれにそのひとつのドアノブを回してみた。 「あぐうっ」 またしても萠黄は度肝を抜かれた。中はマンションの一室ではなく、どこかの一軒家のダイニングらしかった。らしいというのは、まるで爆弾を投げ込んだかのように、壁が剥がれ、天井は抜け落ち、床には焦げ痕も生々しい穴がいくつも空いていたからだ。 こわごわ上体だけを中に入れて覗き込むと、床に倒れた人間の姿が目に入って、思わず両手で口を押さえた。 倒れているのはふたり。どちらも迷彩服を着ているが、ひとりは胴体をふたつに裂かれ、胸から上と腹から下が別の場所に落ちていた。 萠黄は強烈な目眩に襲われた。かろうじて後ろのドアにもたれ、倒れることだけは避けた。ぐるぐると回る視界を閉じたまま、萠黄はドアの外に出た。 彼女の見た光景は、忘れることもない、初めて迷彩服たちと遭遇した学園前のモデルハウスだったのだ。 (ひどい……なんでこんなモンを再現すんの……) ドルルルルル。 エンジンらしき重低音が空気を震わせた。萠黄はすがる思いで音のする方向を探った。 「あっ、ここは!」 意表を突かれる光景が萠黄を取り囲んでいた。ここがどこなのかもすぐに判った。 伊里江兄弟の秘密基地。その地下脱出口。エンジンの音はまさにいま発進しようとしている潜航艇のものだった。 「待って!」 萠黄は叫ぶと転びそうになりながら水辺へと走った。しかし潜航艇は彼女の声に気づくことなく、その船体を水中に沈め、徐々に遠ざかっていった。 残された萠黄はがっくりと地面に膝をつき、はあはあと息を弾ませながら、濃緑色の水面を見つめた。 (何を勘違いしてるんよ。これはあくまで再現されたもので、潜航艇も立体映像に決まってるやんか。この海への出口も──) 膝の下に落ちていた石を拾い上げる。これは本物だ。萠黄はそれを力まかせに水面に投げつけた。ところが予想に反して、ドボンッと水の跳ねる音がして石ころは水中に沈んでいった。あわてて水際まで膝を寄せ、手を伸ばしてみる。冷たかった。この水は本物だ。 さらに水に濡れた岩に指を這わせてみた。ゴツゴツとした感触も本物である。 萠黄は目の眩む思いで立ち上がった。頭の中ではここはあの淡路島洲本沖の無人島の地下ではないと理解しているつもりだ。しかし肌に絡み付くような湿度の高い空気、すぐそこでゆらゆらと揺れている潜航艇の台座、天井から蓑虫のように垂れ下がっている裸電球の群れ。完璧なまでの再現力。鬼気迫るほどの臨場感に、萠黄の判断力は揺らいでいた。 「………」 話し声が断続的に空気をつたってくる。ずっと先ほどから聞こえていたようだが、少しずつ大きくなってきたのでようやく萠黄の耳が捉えたのだった。 (英語の会話……米軍……) 萠黄は頭の中の妄念を振り落とすべく、激しく首を振った。逃げないと。早くここから。でもどこへ? 前にはまるで地獄に続いているような、底の見えない海水。あの中を潜っていくのか。それとも米兵たちを蹴散らして地上に活路を見出すのか? 「──助けて」 英語の話し声に突然日本語が交じった。 「──助けて、助けて」 (ヴァーチャル伊里江さん!) 「──萠黄さん、助けて、殺される」 萠黄はつんのめるようにして、ここまで降りてくるのに使った脱出口に向かった。重傷を負ったヴァーチャル伊里江が、米兵から拷問を受けている図が瞼の裏に浮かんでは消える。わたしが助けないと、リアルのわたしが。 シュルシュルと布のこすれる音がした。萠黄は足を止めた。すると、脱出口から米兵が現れたではないか。それもひとりやふたりではない。次々と滑り降りてきては立ち上がり、持っている銃を萠黄に向けて構える。その数がどんどん増えていくのだ。シュルルルッ。スタッ。シュルルルッ。スタッ。シュルルルッ。スタッ。 「こっちに来ないで!」 萠黄はリアルパワーで猛烈な風を起こした。自分自身の身体が飛びそうになるほどの。 ところが──米兵たちは何ごともなかったように、彼女に向かってくる。少しも動じたふうがない。 萠黄は両手を挙げて後退した。 「撃たないで、撃たないでください」 しかし米兵の表情は帽子の陰に隠れて全く読めない。どれも口を真一文字に締めて、静かに迫ってくる。 「──助けて、萠黄さん、助けて」 ヴァーチャル伊里江の声は、だんだんと悲痛な色合いを帯びてきた。萠黄の心は混乱を来たし、足をけつまずかせて尻餅をついた。 手の先が水に触れる。振り向くとすぐそこに満々とした海水が退路を塞いでいる。 ザッザッとロボットのような規則正しさで迫る米兵。 伊里江は声を振り絞って救いを求めている。 萠黄は両手で頭を押さえてその場にうずくまると、こんな思いはもういや! と声を限りに叫んだ。 |
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