Jamais Vu
-287-

第21章
エンジェルフォール
(4)

 廊下の角を折れると、突き当たりには観音開きの大きな扉が待ち構えていた。学校の体育館にあるような鋼鉄製のやつだ。
 背後から声が迫ってくる。萠黄は急き立てられる思いで扉の把手をつかむと、全体重をかけて手前に引いた。扉はギギギという軋み音を上げながら開いた。
 中は体育館ほどの広い空間になっていた。天井は高く、眩しいくらいの蛍光灯が部屋の隅々まで照らしている。なのに誰もいない。部屋には設備らしいものは一切なく、数個の段ボールが片隅に散乱しているぐらいだ。お掃除ロボットが掃いたのかと思うほど床がきれいなのは、これまでに見てきた廊下や部屋と同じだ。
 左側の壁沿いには、これも例のごとく、いくつかの扉が並んでいる。
「どこが奈良なん?」
 多少の期待はしていたのにこの有様。萠黄は拍子抜けして、床に胡座をかいて座り込んだ。床はほんのり暖かい。
「物産展の商品搬入前やったんかなあ、やっぱり……」
 萠黄は冗談を口にしながら、両腕を伸ばして大欠伸をした。そして首の凝りをほぐすようにぐるぐると回した時、彼女の目はあるものの上で釘付けになった。
 左の壁に並んでいる扉。珍しくそれぞれの扉のあいだには窓があった。萠黄の目を引きつけたのは、真ん中の扉の右上に取り付けられた表札だった。

 光嶋

 と書かれている。
 萠黄はゆっくり立ち上がり、おそるおそる扉に近づいた。
 間違いない。彼女の名字である。しかもじっさいに住んでいる家の表札と寸分違わない字体で書かれている。
 あらためて扉を眺める。よく見れば、扉の色も形も、ドアノブさえも、萠黄の実家にあるのと全く同じ造りだ。少なくとも同じメーカーによる同じ扉がここには取り付けられている。
 頭の中が真っ白になった。だからドアノブに手をかけたのも無意識だった。握ったドアノブをぐっと押し下げ、手前に力いっぱい引く。鍵はかかっていなかった。
 見慣れた玄関の三和土があった。すぐ右にシューズボックス。その隣りには全身を映せる鏡の取り付けられた縦長の戸棚。三和土の先には廊下が伸びており、左右にそれぞれふたつずつドアが配置されている。
(わたしの家や……)
 目を落とすと三和土の隅には、萠黄愛用のサンダルがあり、隣りに母親のパンプスも並んでいる。
 萠黄は込み上げてくる笑いを抑えられなかった。こんなオフザケ、笑うに限る。
「〈奈良〉ってこのことやったんやね。ずいぶん手が込んでるやないの」
 どんな意図だかは不明だが、ここが萠黄のために用意されたものであることは確かだ。
 中に足を踏み入れる。扉がカチリと閉まった。
 運動靴を脱ぎ、フローリングの廊下に両足を乗せる。かすかに軟らかな踏み心地も記憶にあるとおりだ。
 奥のリビングとの境目にあるドアは開いていた。そちらに向かおうとした時、すぐ右のドアの内側からジャーンというパソコンの起動音が聞こえてきて、萠黄は飛び上がるほど驚いた。
(誰かいてる?)
 萠黄は動悸の収まらない胸に手を当てながら、ドア越しに中の気配をうかがった。それっきり物音はしなかった。萠黄は勇気を出してドアを開けてみた。
 そこは萠黄の部屋だった。タオルケットをかぶったベッドがあり、勉強机とパソコンラックが彼女の知っているとおりの場所に置かれていた。
 部屋には誰もいなかった。クローゼットを開け、ベッドの下を覗いてみたりしたが、やはり人はいない。
 萠黄はパソコンの前の椅子に座った。愛機のMacは起動中である。やはり起動音はこのMacが発したのだ。
「ひゃっ!」
 画面を見た萠黄は、あることに気づき、慄然とした。
「な、なんで文字が──」
 そう、画面に表示されている文字はどれも左右反対ではなかった。萠黄はキーボードに目をやると、二度驚いた。テンキーが右側にあって、どのキーに書かれた文字も正置文字だった。
「あっ」
 三度目の驚きはもっと大きかった。萠黄はのけぞるようにして椅子から身体を浮かした。
 なぜ気づかなかったのか。この家の間取り、家具、何もかもが、萠黄が後にしてきたリアル世界の家と全く同じだったのだ。
 壁に貼られた揣摩太郎のポスター。そこに書かれた彼の名前も正置である。
 萠黄はいやでも、自分は元の世界に戻ることができたのかと錯覚せずにはいられなかった。
 ベッドの上に放り出してあるトートバッグに手を伸ばす。中をまさぐって財布と定期入れを取り出した。じゃらりと手の平に乗った十円玉も百円玉も、さらには千円札も元の世界のものとそっくり同じだった。
 つーっと涙が落ちた。不覚にも泣けてきた。
 ホームシックにかかった自分を見て、真佐吉はどこかでせせら笑っているのだろう、してやったりとほくそ笑んでいるだろう。そう思っても、出てくる涙はなかなか止まらなかった。
「帰りたいーーーっ。うーーーっ」
 感情のコントロールが利かなくなり、萠黄はベッドに突っ伏して泣いた。あふれる涙がタオルケットに吸い込まれていく。
 どこか遠くからガーッという音が流れてきた。ハッとして顔を上げる。記憶にある音。マンションの前を走る近鉄電車だ。
 とっとっとっ頭上で詰まった連続音がした。これも知っている。上の階に住む若夫婦の一人娘。まだ三歳くらいの子供が走っているのだ。
「にゃおん」
(──!)
 不意打ちのようにその鳴き声は萠黄の思考を中断させた。顔を上げると、パソコンラックの裏から出てきた白いものが目に入った。
「──ウィル?」
 萠黄は目にたまった涙を拭おうと右手でこすった。その隙に、白い動物は開いたままのドアのところまで駆けた。
 萠黄の目と動物の目が合った。死んだはず愛猫ウィルがそこにいた。
「にゃおーん」
 ウィルは大きな口で鳴くと、お尻を向けてリビングのほうへと走り去った。
「待って!」


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