Jamais Vu
-277-

第20章
最後の対決
(8)

 弾力性のあるベッドの上で、むんは頭痛が引くのを根気よく待っていた。服装は昨日から着の身着のままだ。
 カーテンの隙間に照明のともったWIBAが見える。夕方から急激に広がった叢雲をバックに、波が出てきた湖上に立つ偉容は、それ自体が冷たい意思をはらんだロボットのようにむんには思えた。
 ドアがノックされた。むんが返事をすると、細く開いた扉から伊里江真佐夫の顔が覗いた。
「……お目醒めですか? よかったら会議に参加してくれませんか?」
 むんは判ったと応えた。
 ここは海岸近くのとある一軒家。むんたちはまたも空き家のひとつに潜り込んだのだった。
 数分後、身支度を整えて階下に降りると、応接間では雛田、五十嵐、伊里江、駿河炎、炎の母が顔を揃えていた。
「顔色がすぐれないわよ。無理しないでね」
 炎の母親がむんを気遣った。むんは大丈夫ですと言い、空いているソファに腰を降ろした。
 母親は立ち上がり、キッチンでお茶を入れると、むんの前のテーブルに置いた。むんは軽く頭を下げた。
 数分前まで応接間では議論が渦巻いていた。二階にいたむんは、議論が収まるまでじっと待っていた。内容はベッドにいても聞こえていた。WIBAへどうやって乗り込むかが話し合われていたのだ。
 今は全員が押し黙っている。一応の結論は出たようだ。
 雛田が固い空気を打ち払うように、やわらかな口調で訊ねた。
「むんさん。体調はいかがですか?」
「ええ、もうすっかり」
 そうは言ったが、頭の中ではまだ半鐘が鳴っていた。柊にむりやり注射された薬品の後遺症である。
 再び沈黙がおりる。むんは目の前に置かれた湯のみに手を伸ばした。濃い緑茶が乾いた神経の隅々にしみ渡り、半鐘の響きが徐々に遠ざかっていった。
 男たちに目を走らせる。
 伊里江は見た目にも判るほど憔悴していた。椅子に腰かけているのもやっとではないか。
 雛田は手の平をこすりながら俯いている。
 五十嵐は腕組みをし、顔を天井に向けたまま超然と目を閉じている。
「……むんさん」呼びに行った責任を感じてか、伊里江が重たげな口を無理に開いた。「……我々はひとつの結論に達しました」
 むんは腰を動かして居ずまいを正した。
「……正面突破を試みます」
 すっと頭から痛みが消えた。むんは伊里江の鉛色の頬をじっと見つめた。
「……私には皆をWIBAまで連れて行く体力は残っていません。空気の球を作ったところで、水に潜るまでもなく壊れてしまうでしょう」
 伊里江はふうと息を吐くと、苦しそうに続けた。
「……炎君が超音波で倒せるのは、せいぜい半径十数メートルの敵です。武装した数百人の迷彩服が相手ではどうにも──」
「だからまかせなさいと言うておる」
 鋭い声を発したのは五十嵐だった。彼は腕を解くと一同を見渡し、ソファに立て掛けたサーベルに手を伸ばした。
「君たちは加勢せずともよい。私が単身、先陣を切る。いや、すべての敵を引き受ける」
「そんな無茶な」むんはソファを立ち、五十嵐の膝をつかんだ。「迷彩服たちの思う壺ですよ!」
 むんの脳裏に、WIBA記念館での忌まわしい光景がよみがえった。
「お嬢さん」五十嵐は静かな口調で遮ると、むんの手に自分の手を重ねた。「考えに考えた末の作戦だ。敵もまさか正面から攻めてくるとは想像もせんだろう。そこが付け目だ」
 五十嵐はヒゲをわずかに上げて笑うと、話はこれで終わりとばかり、「よっこらせ」と立ち上がった。
「年寄りは夜が早い。先に休ませてもらいますよ」
 五十嵐はサーベルを持って退室した。
 むんは唇を噛んで、その背中を見送った。
「明日、日の出前に決行だ」
 雛田が宣言した。
 と、その時、
《やるのかい?》
 くぐもった声が、むんのポケットから流れ出た。むんは驚いて携帯電話を取り出した。液晶画面にウロコが映っている。
「アンタ、いつからそこにいてたん!?」
《ついさっき、たどりついたところさ》
 ギドラは煙と金箔をまき散らして登場すると、派手にバク転をしてみせた。
「萠黄のところにいたんでしょ? あのコは無事?」
《萠黄さんはね、WIBAに乗り込んだのはいいけれど、捕まっちゃったんだ》
 ギドラは皆にこれまでにあったことを説明した。WIBAにたどり着いた途端、萠黄はむんの危急を知り、空を飛んで駆けつけ、久保田と和久井を助け出したこと。ふたりを連れてWIBAの真ん中に戻り、ビルの外壁に投影された真佐吉の姿に翻弄されたこと。真佐吉のアジトは地下にあるとみて向かおうとしたものの、利根崎の強襲を受け、柊と対決したこと。直後に現れた男たちによって地下に連れ去られたこと──。
「WIBAの地下に……」
《エレベータが地下五階を過ぎたところで、通信状態が悪くなったんだ。それでボクは萠黄さんの携帯を飛び出したんだ。自分のコピーを残してね》
「………」
《ネット衛星と接続できないと、状況に応じてボクの必要なモジュールをダウンロードできないから。コピーのままだと、かなりバカになっちゃうけど、いないよりマシでしょ?》
 むんはもう聞いていなかった。
「ちょっとゴメンな」
 ひと言断ると、携帯を操作し、WIBAの地図を表示させた。しかし水面下のデータは五階までしか存在しなかった。
「清香ちゃんは?」
 雛田がギドラを睨むようにして訊ねる。
《うーん、判んない》
 雛田はがっかりと肩を落とした。
《それとね、これは別の話だけど、利根崎っていう迷彩服さんが衝撃の事実を告白したよ》
「何?」とむん。
《最後のリアルの正体。なんと野宮助教授だって》
「ウソッ」
《まあ、ウソかマコトか》
 むんは雛田と顔を見合わせた。
《もうひとつ。ハジメさんは迷彩服側の手に落ちたらしいよ。利根崎にかなりいじめられたらしい》
 部屋の空気がどんよりと重くなった。
「……みんなバラバラですね」
 伊里江は首を持ち上げると、悔しそうに歯噛みした。
 それでも、ギドラがもたらした情報は、むんたちにWIBA攻略の方針を立てるヒントになった。
 彼らはその夜、遅くまで作戦会議を続けた。


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