Jamais Vu
-272-

第20章
最後の対決
(3)

 いざとなればリアルパワーで対抗すればいい。そんな考えが萠黄の気構えを甘くしていたきらいがあった。
 縄で引っ張られ、倒れた拍子に後頭部を痛打した時、萠黄は自分が異様な雰囲気に呑まれていることを思い知らされた。背中を庇うはずだったエアクッションが、ほとんど発生しなかったからだ。
(うまくイメージでけへん)
 男たちの勢いはさらに増し、声はわんわんと劇場に谺している。萠黄の転倒に「リアル、恐れるに足らず」と気勢を上げる男もいる。円形劇場は今や円形闘技場と化していた。
 視界の中で男たちの顔がぐるぐると回り出した。しばらく忘れていた自律神経失調症の症状がぶり返してきたのかと萠黄は焦った。
 その時、指先に硬い物に当たった。椅子だ。
 萠黄は薄目を閉じて「集中、集中」と念仏のように唱え、椅子の足を握ると、その手にリアルパワーを込めた。
「おおっ!?」
 数百の男たちの目が、演台から浮き上がった椅子に釘付けになった。椅子は萠黄の手を離れて上昇していく。
「魔法だ……」
 誰かがつぶやいた。椅子の頼りなさげな浮きかたが、その言葉に真実味を与えた。
 恐怖は簡単に伝染する。場内の熱気は幾分沈静化した。
 萠黄は床に大の字になったまま、首だけを起こした。縄をつかんでいるのは体育教師風の男だ。萠黄は彼とのあいだの距離を目測した。
 ドンッ。
 高々と上がった椅子は体育教師の面前に落下し、粉々に砕けた木片を避けようとして彼は手を放した。
 萠黄はその期を逃さず右膝を引き、足首から縄をはずした。男たちは虚をつかれたように押し黙ったままだ。
《アッハッハッハ、やはり私の目に狂いはなかった》
 真佐吉の楽しげな声が朗々と響き渡る。
 萠黄はいらだちを募らせた。これでは高みの見物を決め込んだ真佐吉を前に、御前試合を勤めているようなものじゃないか。
《おかげで皆に、リアルとはどういうものか、ナマで見てもらうことができたよ。先のふたりを捕まえた時は、ふたりともすぐ罠に落ちて気を失ったんで、がっかりしていたところだ。これで皆にも、リアルの存在が実感できたのではないかな》
 男たちの頭が頷いた。萠黄の目にはそれさえ真佐吉に強制されているように映った。彼らは真佐吉に作られた機械の歯車に過ぎないのだ。
(ひょっとして──この人たちも真佐吉さんに弱みを握られているんやろか……。弱みをネタに強請られて集まったんやとすれば納得がいく)
 そこを突いてやろうかと口を開けた時、真佐吉の号令が男たちに下された。
《ショーは終わりだ。皆さん、彼女をカプセルに押し込めてくれたまえ》
 言い終わるや、頭上から空っぽのカプセルがスルスルと降りてきた。
 カプセルに放り込まれて意識をなくせば、永遠に反撃の機会を失ってしまう。何としても逃げおおせなければ。
 男たちが一斉に起立した。彼らはそのままじわじわと萠黄のほうに迫ってきた。
 男たちは武器らしいものを持っていない。素手で捕えるつもりらしい。萠黄は困惑した。リアルパワーを直接彼らに向けた場合、ヴァーチャルである彼らに大きな打撃を与えて、命を奪うようなことになりかねない。大学の時の悲惨な光景は繰り返したくなかった。
「来ないで!」
 言ってはみたが彼らに聞く耳はない。すでに最前列は演台に登り始めている。
 萠黄は深く息を吸った。逃げ道は決まった。今度こそ集中力を高める必要がある。
(よしっ!)
 萠黄は短い助走をつけると、両足を揃えて床を蹴った。
「おあっ、スゲッ!」
「やっぱ人間業じゃねー」
 萠黄の身体は男たちの頭上を滑空し、目で追いかけた数人が仰向けに倒れた。
 萠黄はTシャツをなびかせて座席の切れ目に着地すると、男たちは後ろに取り残される形になった。
 そのまま出口を突っ切ろうと駆け出した瞬間、
「うっ」
 萠黄の足に急ブレーキがかかった。
 あったはずの出口がなかった。立ち塞がったのは、レンガ造りの壁だ。
(これもホログラフィ映像か)
 振り向くと、男たちも堪忍袋の緒が切れたのだろう、今度は全速力で走ってくる。逡巡している暇はない。
 萠黄は見当をつけて壁を叩いてみた。思ったとおり手が立体映像の壁を突き抜ける。押すとガチャガチャと動く気配。だがそれ以上押しても扉は開く気配がない。ロックされてしまったらしい。
「待たんかーい!」
 先頭集団がすぐそこに来ていた。萠黄は「ごめん」と一声叫ぶと、振り向きざまにエア爆弾を投げつけた。その風に十数人が吹き飛ばされ、気圧の変化に萠黄の耳がキインとすぼまった。
 再び壁に立ち向かおうとした萠黄の視界の隅に、きラッと光るものが映った。清香の入れられたカプセルである。場内に置いておいては危険と真佐吉が判断したのだろう、天井に近い四角い穴から引き込もうとしている最中だった。
 反射的に萠黄は跳躍した。決して大きくないその穴から逃げることを思いついたのだ。
 目測は誤たず、両手はカプセルを吊るした鎖をつかんだ。萠黄の目の前で、眠ったままの清香の顔が揺れる。目覚めてくれることを期待したが、願いはかなえられなかった。
 萠黄は滑りそうになりながら、カプセルの上に這い上がろうと懸命に鎖をよじ登った。こんな不安定な場所ではリアルパワーの焦点も合わせにくい。いざという時に頼りになるのはやはり基礎体力だ。その基礎体力に自信がないのが萠黄だ。
(こんなことなら部活でもやっていれば)
 思わず苦笑が漏れた。
 と、突然、カプセルの動きが止まった。前方を見ると、四角い穴にシャッターが下りようとしている。
「もうっ、次から次へと!」
 カプセルと穴とのあいだはまだ数メートルの開きがある。
 萠黄は自分を乗せて飛ぶ雲をイメージすると、鎖から手を放した。身体はいったん空中を沈んだが、すぐに弧を描いて上昇し、間一髪で閉まりかけた穴に滑り込んだ。


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