Jamais Vu
-270-

第20章
最後の対決
(1)

 降下し続けるエレベータ。
 萠黄は張りつめた空気に息苦しさを覚えた。目の前で背中を向けているのは、先ほど萠黄に対してわずかに頬を緩めた三十代半ばの背広の男だ。髪を七三にきっちりと分け、中肉中背の体型はいかにも働き盛りのサラリーマンといったところだ。萠黄は誠実そうな彼の雰囲気に好感を持った。息苦しさを解消するため彼女は思い切って背中に問いかけてみた。
「あなたがたは真佐吉さんとどんな関係なんですか?」
 しかし背広の男はわずかに身じろぎしただけで、返事はしなかった。左右に並んだふたりの男──Tシャツ&ジーンズの二十代の男と、体育教師風で四十代の上下ともジャージの男──も同じで、彼らの表情からは何も読み取ることができなかった。
(そっちがその気なら──)
 萠黄は心の中で風船をイメージした。たちまち男たちの靴底が床から浮かび上がった。
「うわっ」「おわわっ」
 男たちはあられもなく両手をバタつかせた。それでも身体のバランスは思うようにとれず、額を壁にぶつけたり、振り回した拳が仲間のアゴに入ったりした。
 その時、萠黄は彼らの耳にイアホンが差し込まれているのに気がついた。コードがないため補聴器にも見えるが、三人が三人とも難聴とは思えない。
 チン。
 エレベータは止まり、扉が左右に開いた。
「あの、降りればいいんですよね」
 萠黄が訊ねると、背広の男はズレた眼鏡をかけ直し、はずんだ息のまま、二度頷いた。
 出たところはちょっとしたロビーになっていた。床はホテルのようなカーペットが敷き詰められ、天井には小ぶりのシャンデリアが吊り下げられている。
 さらにロビーの奥に目を移すと、廊下が左右に伸びており、こちらから見える側に幅広の扉が並んでいた。まるで広い映画館かコンサートホールのようだ。
「ついてきてください」
 ネクタイの曲がり具合を正した背広の男は、再び背中を向けて幅広扉へと向かった。萠黄も後に従う。Tシャツとジャージも続く。
 背広の男が扉を押した。途端に反響する群衆のざわめきが萠黄の耳を奪った。入った場所は暗い通路の末端で、一本の道が明るいほうへと続いている。声はそちらから響いてくる。
(人がいっぱいおるみたい)
 後ろで扉が閉じられた。三人の男は通路を前へと進む。萠黄も連行されるように歩いていく。
 通路の半ばまで来た時、萠黄はこの空間が何であるのかを、驚きをもって悟った。
 反響するのも道理である。そこはすり鉢状の円形劇場になっていたのだ。古代ローマの遺跡にあるような、かなり本格的なものだ。見た限りではどうやら本物の石材が使われているらしい。
 さらに驚いたことに、舞台を囲んだ客席には数百人もの男たちがひしめいていた。ざわめきの正体は彼らだったのだ。
 萠黄たちの姿が通路に見えた途端、場内は水を打ったように静まり返った。それがあまりに見事だったので、萠黄は誰かが指示を出しているではと思ったほどだ。しかしテレビスタジオのADのような人間は発見できなかった。
「あちらにお座りを」
 背広の男は、劇場の中央に置かれた椅子を示した。萠黄は言われるままに演台に登り、おずおずと椅子に近づいた。
 数百人の男たちの視線が萠黄に集中した。彼らが一斉に息を飲むのが判った。
 これでは見せ物だ。萠黄は究極の居心地の悪さに、椅子にかけるどころではなかった。振り返ると、背広の男たちはそこが自分たちの所定の位置らしく、客席の最下段に収まっていた。
 男たちは隣同士で話をするでもなく、ただ座ったまま、じろじろと萠黄を注視している。
 萠黄は泣きたくなった。視線の重圧に押しつぶされそうだった。まさかここで歌を歌えというのではあるまい。芸を見せろと言われたら舌を噛み切って死んでしまうかもしれない。
 どれぐらい時間が過ぎたか。実際はほんの数十秒だっただろう。
 前触れもなく、場内の明かりが消えた。何人かがオッと声を発した。しかし真っ暗になったわけではない。スポットライトがひとつ、天井から萠黄に向かって浴びせかけられていた。
 萠黄は椅子の背もたれに乗せていた手を額の上にかざし、その強烈な光を遮った。
 すると、頭の上から『声』が降ってきた。
《萠黄さん、お待たせした》
 それは真佐吉の声に他ならなかった。
《こんな場所にお呼びだてして申し訳ない。いろんなことを一度に説明するには都合が良くてね》
 声の方向は特定できない。いずれにせよまたマイク越しの声だ。そんな萠黄の不満を読んだかのように、
《済まないな。命を狙われている悲しさ、ナマの姿をおいそれと晒すわけにはいかないのだよ。判ってくれたまえ》
「前置きはいりませんん」萠黄はたまらず叫んでいた。「わたしをどないするつもり?」
《決まってるじゃないか。君はリアルだ。わたしの野望を実現するための尊い人柱になってもらうんだよ。すでにお仲間が、君より先に到着しているぞ》
 壁の一角に灯がともった。新たな光は壁までも劇場の様式に合わせて石積みであることを萠黄に教えた。
 しかしいま肝心なのは壁ではない。
 光は、空中に太い鎖で吊り下げられた二個のカプセルを照らしていた。そのカプセルの中には人の姿があった。
「清香さん! 齋藤さん!」


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