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-259- 第19章 魔王の迷宮 (5) |
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萠黄の薄く開いた目に、夜明け前の赤い光がおぼろに差し込んだ。 ビニールシートの下で、齋藤も清香もハジメも死んだように眠っている。 空には、二、三、千切ったような雲が浮いているが、おおむね晴天だ。 ヴァーチャル世界に迷い込んで、十一日目。 タイムリミットまで今日を入れて、あと四日。 萠黄は、ふいに焦燥感に囚われそうになり、あわてて打ち消した。 (あわてるな。長い道のりやったけど、やっとここまで来たんやないか。真佐吉さんはきっとここにいる) 頭をグッと反らせば、WIBAのビル群がまるで真佐吉を守る兵隊のように、そこにあった。ビルは最高でも二十階ほどの高さだから、高層ビルとは言えない。それでも水辺にずらりと立ち並んだ姿は小マンハッタンという偉容で、なかなかの圧巻だ。 四人が隠れているヨットは、湖面に伸びるヨットハーバーのほぼ先端に係留されている。今その付け根の辺り、WIBAの外周に数人の迷彩服が現れ、何やら話し込んでいる様子が気になるといえば気になる。 隣りで清香が「うーん」と声を上げた。「萠黄さん、起きてたの?」 清香は長い髪をかきあげながら、重そうな瞼を持ち上げた。 「おはようございます。……そや、清香さん、携帯貸して」 清香はポケットから携帯を取り出し、「はい」と萠黄に手渡した。 「ギドラ、いてる?」 呼びかけると、三つ首獣はフザけた格好で現れた。真っ赤な花柄のパジャマにナイトキャップという出で立ちである。腕がないので枕を首のひとつがくわえている。 《何だい、こんなに朝早く》 「悪いんやけど、いまアンタの冗談に付き合う気にはなられへんねん。お願いやからマジメに聞いてね」 《いつもマジメさ》 パジャマと枕がパッと消えた。ナイトキャップだけが唯一抵抗するように、三つの頭の上に残っている。 「またメール、頼まれてくれる?」 《むんさんにだね。何て?》 「今どこにいるのか教えてほしいって。わたしらはWIBAの湖岸とは反対側のほうにいることも伝えて」 《オッケー。それじゃ行ってくるね》 ギドラは金色にきらめく身体をひるがえすと、今度は三つ揃のビジネススーツに鱗の身体を包んでいた。ギドラはそのまま振り向きもせず、鞄をくわえると、ドアを開けてさっさと出ていった。すべて画面の中である。 ギドラを介したメールは、むんと別行動になったおとついの夜以降、何度かやりとりをしている。彼は毎度、茶化すような寸劇やらコスプレに興じるのが玉に瑕である。 普通にメールを送信するのは危険だとギドラが言うので、ずっと彼にまかせているものの、「ひょっとしてギドラは真佐吉の放ったスパイでは」という疑惑が湧いてから、萠黄の心中には複雑な思いが渦巻いていた。 発端は大学での脅迫電話による影武者騒動。携帯があれば誰のそばへでも自由に飛んで行けるギドラにとって、人を左右できる脅迫ネタをつかむことは、造作のないことだろう。まさか携帯電話の中で耳をそばだてている者がいるなどと誰も想像しないし、だいたい人間を強請るPAIの存在など誰も信用しまい。 その後、疑惑はむくむくと膨らんでいった。 メールは本当にむんに届いてるのか? 互いのやりとりが真佐吉側に筒抜けになっているのではないか? かといって、その疑いを口にすればギドラは消えるかもしれない。根拠もないままギドラを詰問しても、この知的な怪獣は巧妙に言い訳するだろう。 その意味では、柊に携帯電話を破壊されたのは、ラッキーと言えなくもない。いざとなればギドラと距離を置くことも可能だ。 萠黄はまたWIBAを見上げた。 今日を入れて四日のうちに事を解決しないと、世界は本当の意味で終焉を迎えることになる。 WIBAが最後の勝負の舞台。そうならねば。 たとえ真佐吉の罠が待っていようとも、相手を飲み込むつもりで向かって行かなくてはならない。 萠黄は身体が震えていることに気づいた。 怖い。それもある。 しかしそれ以上に、真佐吉との勝負に対する期待感のようなものが胸中にあるのは否めない。 (無類の人見知りで引きこもりのわたしが、誰かと戦うことに武者震いするなんて……。これもリアルパワーのせいかな) そんなことをあれこれ考えていると、携帯の着信音が鳴った。ギドラのご帰宅だ。 《大変だよ。むんさんがいない》 ギドラの第一声に萠黄は絶句した。 「──いないって、どういうことよ」 すでに目覚めていた齋藤もハジメも、清香といっしょに携帯画面を覗き込む。 《判らないんだ》ギドラの口振りは、萠黄にもどこか取り乱しているように見えた。《呼びかけても反応がない。おかしいなと思って、三次元ホログラフィの限界まで背伸びして、辺りを眺めてみたんだけど、どこかの民家の床の上に落ちてるみたいなんだ》 携帯電話が、誰もいない家に放置されている? 四人のあいだに緊張が走った。特に萠黄の驚きは尋常ではなかった。 「どこなんよ! ちゃんと観察して教えなさい!」 《うーん、そう言われてもなあ》 「あちらの画を見ることはでけへんのかいな?」 齋藤が口をはさんだ。 「そうよ、映像をこっちに送って」 萠黄は力を得て、ギドラに顔を寄せた。 《キビしいな。君たちの居場所が敵に判ってしまうよ》 萠黄は一瞬躊躇したが、すぐに叫んだ。 「かまへん!」 他の三人も異を唱えない。 《了解。いちおう複数の中継地点を使って、カモフラージュしてみるよ》 ドンッ! 突然、鼓膜を激しく震わせる炸裂音が鳴り響いた。 反射的に四人はヨットの底に身体を伏せた。 周囲の船に止まっていた鳥たちが、鳴き声を上げながら飛び立って行く。 「迷彩服か?」 齋藤が叫んだ。 おそらくそうだろう。音は迷彩服たち一団のいた方向からした。 ハジメが機敏にビニールシートから出ると、音を確認しに伸び上がったが、すぐに背を屈めて戻った。 「停泊している船を沈めてる」 「どういうことや?」 「たぶん、わたしらみたいなんが、こっそり隠れへんようにと違う?」 萠黄は推測した。 するとその推測が正解だと言わんばかりに、続いて二つ目の爆発音がした。心なしかさっきよりも近いようだ。 「これはいつまでも隠れてられんな」 齋藤は動揺しつつ、いつもの薄笑いを浮かべている。 《ただいま》 ギドラが唐突に帰ってきた。萠黄は携帯に飛びついた。 「映像はどれ? もう、早く!」 画面はすぐ中継映像に切り替わった。 はたしてギドラが言うように、確かにどこかの床の上だった。カメラは右へ右へとパンしていき、やがてそこがありふれた民家の玄関であることが判明した。 「どこの家やろ。手がかりになりそうなものは?」 映像が二周目にさしかかった時、うめき声と人の腕が画面を横切った。 「誰ー?」 『ううう、くそぉ』 「その声は久保田さんやね? 久保田さん!」 『も、萠黄さんか?』 腕しか見えないのも無理はない。久保田の身体は玄関の三和土の上に伸びていたのだ。やがて彼の顔が映像の中に現れた。 『不覚だった。柊にやられたよ』 「柊さんに──!」 萠黄は戦慄を覚えた。夜の堅田で見た柊の俗悪な笑い顔が脳裏によみがえる。 「むんは!?」 久保田はみぞおちの辺りをさすりながら、反対の手で後頭部をさすっている。おそらくリアルパワーで殴られ、倒れたはずみに頭を打って気絶していたのだろう。 『むんさんは──さらわれた』 「!」 萠黄の身体中の血が逆流した。 「久保田さん、そこはどこ?」 『番地は判らないが……近江舞子駅のすぐ近くにある、小学校の裏だ』 萠黄は立ち上がると、ビニールシートの外に出た。 「萠黄さん、待って! いま出ていくと危険よ」 萠黄は清香を振り返った。その目は清香が見たこともないような静かな怒りに包まれていた。 「わたし、行く!」 「でも……」 「むんは、わたしのかけがえのない親友。どんなことをしても守らんとあかんの」 齋藤が「うむ」と大きく頷いた。 「その意気やよし。後は心配せずに行きなさい」 萠黄はぺこりと頭を下げると、ヨットから桟橋の上に、ダッと躍り上がった。 そして深呼吸をひとつすると、 (大気よ、わたしを包め!) 心の中でまじないのように唱え、桟橋の羽目板を力いっぱい蹴った。 萠黄の身体は、ロケットのように空高く飛んだ。 みるみる萠黄は黒い点になった。 見送る三人の耳に「いま奥で音がしなかったか?」と迷彩服の声が聞こえた。こちらへ駆けてくるようだ。 「わたしたちも逃げなきゃ」 清香は携帯をポケットに突っ込んだ。 「そやな。ん?」 齋藤は、萠黄の飛んで行った空をじっと見ているハジメに気がついた。齋藤はハジメの背中を叩いた。 「あのコを助けたれ」 「──でも、ジイさんはどうする」 「わしなら心配すな。この美人さんを守る老騎士の登場や」 そう言ってウインクした。 ハジメは「死ぬなよ」とひと言残すと、桟橋に這い出し、萠黄の後を追って空に飛び上がった。 「何か飛んでったぞ!」 「鳥じゃないのか」 「違う。もっと大きいものだ」 そんなリアルキラーズたちの叫びをよそに、齋藤は清香の前に手の平を差し出した。 「お嬢さん。どうかお手を」 迷彩服らが四人の潜んでいたヨットまで駆けてくると、入れ違いに大きな水音がして、周囲の船をさざ波が揺らしていた。 「おい、見たか、いまの」 ひとりの迷彩服が仲間に訊ねる。 「小クジラじゃないのか」 「俺にはシャチに見えた」 「バカ言うな。琵琶湖だぞ」 ヨットはもちろん、もぬけの殻だった。 |
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