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-258- 第19章 魔王の迷宮 (4) |
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「池で採ったミジンコ──あれを初めて顕微鏡で観察した日のことを思い出すな」 久保田があまりに真剣な表情で言うので、むんはつい吹き出してしまった。 彼女の前に置かれているノートパソコン。WIBA記念館で、五十嵐が斬り捨てた迷彩服の所持していたものだ。その画面には今、地図が映っている。 近江舞子の湖岸までわずか数キロという所にある、とある民家にむんたちは潜んでいた。時間は午後九時を少し回ったところ。 今夕、WIBA記念館を脱したむんと五十嵐は、無事に久保田の車に合流した。 そのまま日が暮れるのを待ち、大胆にも車を近江舞子に乗り入れ、たまたま発見した無人の民家に転がり込んだのだ。 画面は、自分たちがいる近江舞子の近辺を拡大表示していた。久保田がミジンコと表現したのは、地図の上を動き回る「+点」のことだ。 「迷彩服たちの配備が一目瞭然でしょ?」 +点はリアルキラーズひとりひとりの動きを表していた。実際に遠くから観察し、正確に表示されていることは確認済みである。おかげで警備の手薄なルートを選んでWIBAに近づくことができたのだ。 こんな近くに隠れているとは、迷彩服たちも思うまい。 「名前まで表示されるんだな。真崎の野郎も映ってるかい?」 むんは画面を指さした。 「ここ。湖岸に面したホテルの中にいてる」 なるほど、他が赤い+印なのに対して、それは紫色で、+印の下には御丁寧にも『真崎』と表示が出ていた。 「そのパソコンを使ってて、奴らに気づかれたりしないかな?」 「大丈夫。伊里江さんが位置情報を送信するユニットを無効にしてくれはったから」 ふと、むんは後頭部に突き刺さる矢のような視線を感じた。ほとんど殺気に近い。 チラと横目で見ると、和久井助手が斜め後ろのソファからこちらを睨んでいた。久保田が異性(この中ではむんだけ)と話すと必ずこの視線が襲ってくる。むんは謂れのない視線攻撃にほとほと弱っていた。 「和久井さん」 むんは身体を向けると、あえて自分から話しかけてみた。口許に少し笑みを浮かべながら。 「な、何でしょう」 和久井はあわてて視線をそらした。話す時に人と目を合わせないのがこの女性の癖である。 「大学のほうのお仕事はよろしいんですか?」 「ええ。有休を取りましたので」 あまりに見え透いた嘘に、むんは悪戯心をくすぐられた。 「それほど暇そうには見えませんでしたけどね。野宮さんが人手が足りなくて困ってるんじゃないですか」 むんが畳み掛けると、和久井は唇を噛んで、さらに何か言い返そうとしたが、 「まあまあ、休みは取れるうちに取ったほうがいいじゃないか」と久保田が割って入った。「和久井さんがいてくれて助かることもあるんだから」 久保田は夕食のことを言っていた。 意外なことに和久井は料理上手だった。 五人がこの無人の一軒家に潜り込んだ時、彼女は真っ直ぐキッチンに入り、冷蔵庫の残り物などで器用に全員の食事を作ってくれたのだ。しかも美味だった。 空腹の限界に達していた五人は、礼もそこそこに料理を腹の中にかき込んだ。 先にWIBA記念館を教えてくれたのも彼女ではあった。おかげで立体地図を入手することができたのだが、仲間の信太を失うという大きな代償を払った。もちろん和久井のせいではなかったが、あの光景は今も瞼の裏になまなましく焼き付いている──。 むんは記憶を振り払うように立ち上がると、部屋の隅で横になっている伊里江の枕元に近づいた。 「加減はどう?」 「……一進一退ですね。でもお気遣いなく。いつでも動けますから」 壁際では、五十嵐が両腕を組んで椅子に深く腰かけたまま寝入っていた。 (よほど疲れはったんやな) むんもさっきから摺り足で歩いていた。足を上げるのが億劫なほど、疲労が蓄積している証拠だ。 (逃亡生活を始めて、もう何日になるんかな。萠黄の家でアホな話をしてたんが、一年以上前のような気がする。──今頃どこでどうしてるんやろ。萠黄は) ふと欠伸が催し、むんは大きな口を開いた。 その時、玄関のチャイムがポーンと鳴った。 むんの眠気は一瞬にして吹き飛んだ。 (まさか見つかった!?) 久保田が素早く立ち上がった。廊下を足音がしないよう、滑るように玄関に向かっていく。むんも後を追った。ちらりと見ると五十嵐は熟睡している。眼を覚まさなかったようだ。 五人が潜んでいるのは、この家の最も奥まった所にある一室で、明かりは極力小さくしていた。 (見つかるわけないとタカをくくってたのに) ふたりは廊下の角から玄関を覗き見た。すると今度はドンドンと扉を叩く音がし、さらに聞き覚えのある声が自ら名乗った。 『すいませーん、柊です!』 ふたりは驚きのあまり、顔を見合わせた。どうしてここに柊拓巳が──。 『助けてください! むんさん、いるんでしょう?』 柊の声は悲痛な色を帯びていた。 「あの野郎、のこのこと何しに来やがった」 久保田は怒りを露にして扉を睨みつけた。柊が萠黄たちにしたことは、萠黄がむんに送ったメールによって、久保田も知っていた。 『急がないと、もうすぐ敵がやってきますよー!』 (敵やて?) むんは腹を決めて前に出た。 「いいのかい?」 問いかける久保田にウンと頷くと、玄関扉の鍵を外しにかかった。柊も解錠の音に気づき、声を出すのを止めた。 扉が開いた。柊の長身が旋風のように入ってくると、力尽きたかのようにその場に倒れ込んだ。身にまとった袈裟は襤褸布のようにあちこちが千切れていた。 「柊さん、敵が来るってどういうこと!?」 むんはいとまを与えず、詰め寄った。 「敵は」柊はハアハアと息を荒げながらも、ごくりと唾を飲み込み、「私にも判らない」 「判らんだとォ!?」 久保田がむんの前に出た。 「そうなんです。私はついさっきまで正体不明の敵の手に落ちていました。それをなんとか逃げ出し、ここまで知らせにきたのです。敵はあなたがたがここに隠れ潜んでいることをつかんでいます!」 柊の言葉に、むんは全身の毛を逆立てた。まさか発見されるとは思ってもいなかった。 しかし現に柊はここを知っていた。 「五十嵐さんたちに知らせやんと!」 むんは膝を立て、久保田が何か言う前に、奥へと駆け出した。 それが油断だった。 むんも久保田も、柊がリアルの力を発揮したところを見たことがなかった。萠黄から話を聞かされても、温和な僧侶という先入観を拭いきれていなかったのだ。 ツッと首筋に痛みを感じたときは、手遅れだった。 振り向いたむんが意識を失う前に見たのは、注射器を握りしめた柊の「下卑た」笑みだった。 |
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