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-257- 第19章 魔王の迷宮 (3) |
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それを見た者がいたなら、小クジラかシャチが浮上してきたものと勘違いしたかもしれない。残念ながらどちらも琵琶湖には存在しないが。 それは大きなアブクだった。水面を盛り上げるように浮上したアブクは、風船のようにパンとはじけると、中から四人の人間を吐き出した。 人間のひとりが、係留されているヨットの船縁をつかみ、懸垂の要領で身体を船体の中に落とし込んだ。ヨットはわずかに軋んで左右に揺れた。 「シッ。音を立てないように」 萠黄が注意しながら、ハジメと協力して二番手の齋藤の尻を押し上げる。足の下がふわふわとしているため、なかなか思うようにいかない。 ハジメ自身は機敏な動作でひらりとヨットの上に飛び乗った。そして萠黄を振り返り、つかまれと言うように無言で手を差し伸べた。 萠黄の足が水面を離れると当時に、アブクは消滅した。解放された空気のかたまりは、湖上をそよぐ風に流れていった。 「疲れたやろ、萠黄さん」 齋藤がいたわった。 「はい、少し。でも前回の海のような激しい潮の流れがない分、楽でしたから」 いやいやと齋藤は顔の前で手を振りながら、 「いやあ、わしにとっては、世界が逆転して以来の驚きやったよ。まさか海の中を散歩させてもらえるとはな。これが昼間やったらもっと水中の様子を見ることができたのに、それだけが唯一の残念やわ」 ヨットにはビニールシートが掛けられている。萠黄はシートの陰から顔を覗かせた。ヨットハーバーをたどっていくと、そこには萠黄がかつて見たこともない、不思議な形をしたビル群が立ち並んでいた。 フローシティー、WIBA。 四人は遂に湖上都市へとたどり着いたのだ。 「うわー、これが噂の『いーば』かぁ」と清香。 「ウィーバですよ」萠黄がツッコミを入れた。「確かにきれいですよねぇ」 萠黄は、整然と灯るオレンジ色のライトに、しばし我を忘れた。 海の中を行こうと提案したのはもちろん萠黄だ。途中まで空中を飛翔していた四人は、二度ほどヘリコプターの音を聴き、背筋を凍らせた。また、ライトでしきりに海上を照らす船の姿も遠目に見た。 迷彩服たちはリアルの飛行能力を知っている。 これは危険と判断した萠黄は、三人を誘って水面近くに降りた。 萠黄は伊里江兄弟の隠れ家のあった小島を離れる際、身体をアブクに包むことで無事脱出した。それを再現したいと齋藤たちに提案したのだ。 夜の湖は暗い。清香はおっかなびっくりという顔だったが、齋藤はむしろ未知の体験は大歓迎と喜んだ。 敵もまさか萠黄たちが水中をやってくるとは想像していなかっただろう、シャボンのような泡の中で四人はふわふわと浮かびながら、誰に邪魔されることもなく、無事にWIBAへ到着することができた。 しかしながら、水中行は萠黄に長時間の集中力を要求した。到着直前の萠黄は、酸欠寸然で頭の中は真っ白になりかけていた。 深呼吸をする。すがすがしいそよ風に萠黄は生き返った心持ちがした。 ヨットハーバーの尽きた辺りに電光掲示板がある。そこには、 『WELCOME TO WIBA』 の一文が流れていた。萠黄は見るともなく眺める。 (まさか、真佐吉さんがわたしらの到着に気づいて、歓迎の合図を送ってるとか?) 笑いかけた萠黄の顔が突然凍り付いた。 「萠黄さん、あれ、おかしくない?」 清香も気づいたらしい。 電光掲示板の文字は、いわゆる「裏文字」ではなかった。リアルたちにとって「正置」な文字で表示されていたのだ。 「奴さん、やっぱりわしらの到着に目ざとく気づきよったかいのぉ」 齋藤が顎をさすりながら言う。ハジメは最前からWIBAの美しい外観に心を奪われた様子もなく、周囲を警戒の眼で見つめている。 「考え過ぎでしょう」萠黄は自分に言い聞かせるように言った。「いずれ、リアルがここに集まってくると信じているんです。あの人なら、これくらいのことはするでしょう。あまり真剣に受け止めないほうがいいですね」 「でも、真佐吉さんはすでにここにいるってことよね」 清香が不安げに身体を萠黄に寄せてきた。 「たぶん」 その時、一隻の哨戒艇が、サーチライトを振り回しながら接近してきた。四人は急いでビニールシートに下に隠れた。 哨戒艇は波を蹴立てて、ヨットの真後ろを通過して行った。 波が落ち着いてから、四人は顔を出した。 清香がWIBAを見つめながら、首を傾げる。 「住んでる人はいないのかな」 「あそこを見て」 萠黄が指さした。 ヨットハーバーの根元は、さほど高くない堤防になっているが、その上をマシンガンを抱えた迷彩服が歩いていく姿があった。 「しつこい奴らやのぉ。これじゃおいそれと上陸でけんやないか」 齋藤が嘆くような声を上げた。すると、横でうずくまっていたハジメがやおら立ち上がった。 「俺が見てくる」 「ダメッ!」 萠黄は彼の腕をつかまえて座らせた。まるでハジメの行動を予測していたようなタイミングの良さだった。 「ここまで来て、無茶はせんといて」叱るように言ってから言葉を和らげて「もうちょっと様子を見てからにしよう、な?」 ハジメはチッと舌を鳴らしたが、何も言わずに膝を抱えた。 ヨットは緩やかにローリングしている。四人は最終決戦場を前にした緊張感と興奮に、最初のうちこそ周囲への警戒を怠っていなかったが、そのうち瞼が重くなり、ひとりまたひとりと、深い眠りに落ちていった。 |
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