Jamais Vu
-254-

第18章
湖上都市へ
(11)

 銃声が展示室の壁に反響し、続いてどすんと重いものが床に倒れる音がした。
 むんは心臓を冷たい手でつかまれたような気がして、ゆらゆらと目眩を感じたが、どうにか足を踏ん張って転倒をこらえた。
 隠れたショーケースのあいだから覗くと、村井という迷彩服の向こうで信太の倒れている姿が見えた。村井は片手でパソコンを支えていたが、もう一方の手には銃が握られていた。信太はそれに気づかず、うかつにも銃口に向かって飛び出してしまったのだ。
 別の顔が隙間から覗き込んだ。北尾である。その目と目が合い、むんは反射的に身を隠した。
 凍り付いた心臓から冷たい血液が全身に流れていく。
(夢なら醒めて)
 しかし北尾の冷酷な声が、むんの思念を切り裂いた。
「出てこいオンナ! それからそっちのリアルの大将、アンタは動くなよ。変な真似をすれば、お前の仲間にとどめをさしてやるぞ」
 五十嵐は両手を挙げたまま、北尾たちを睨んでいる。その表情は明らかに険しさを増していた。
「オイ、出てこないと仲間が死ぬぞ!」
 北尾の急かす言葉に操られるかのように、むんは手を顔の高さに持ち上げると、一歩一歩足音を鳴らしながらショーケースの前に出ていった。
「ほお、やっぱりあの美人の姉ちゃんだったか。となると、他の仲間もこの近くに潜んでいるのかな?」
 北尾は銃を構えたまま、胸ポケットからレシーバーを取り出した。
「こちら北尾。リアル一名とその仲間二名を発見。場所はWIBA記念館。応援を乞う」
『了解!』
 レシーバーを胸に納めると、北尾は油断なく五十嵐とむんに目を走らせ、
「両手を頭の後ろに組め。そのまま床に腹這いになるんだ」
 と命令した。
 残念だが、従うしかない。むんは片膝を付いた。
 倒れている信太に目を向ける。信太は血の気の失せた白い顔で、口を金魚のようにぱくぱくと動かしていた。すでに腰の辺りがへこんでいる。砂状化しているのだ。そう長くは保たないだろう。
「村井。先にデータを消してしまえ」
「ガッテンだ!」
 形勢が有利になったせいで、村井は打って変わって喜々とした表情になり、はずれたパソコンケーブルを転送装置に差し込み直した。
「急げよ!」
「判ってますってば」
 村井はプログラムをリスタートした。消去すべきファイルの所在を確認しようとしているらしいが、興奮が過ぎて指が震え、何度もキーを打ち直している。
 むんは腹這いになりながら、必死で考えをめぐらせていた。
 ドンッ、と銃声が間近でした。むんは身体を縮めた。
「よけいなことは考えるな。じっとしてりゃいいんだ」
 北尾はむんの心を見透かしたようにほくそ笑んだ。
 むんの目の前の床に焦げた穴が空いていた。かすかに煙が立ち上っている。
 煙越しに信太が身じろぎするのが見えた。彼の右手が何かを握っている。ひきつった顔がむんに対してはっきりと頷いてみせた。
 むんの中に、何かが閃いた。
 彼女は両手と爪先で床を叩くと、素早い動きでショーケースの後ろへと転がり込んだ。
「こいつ!」
 北尾の銃が火を噴く。
 銃弾がむんのTシャツを切り裂いた。
 むんの動くのと同時に──いや一瞬早く、信太が右手につかんでいたものを、渾身の力で村井の顔に投げつけた。
「うわっ」
 砂だった。信太の手の中にあったのは、自分の腹から握り取った一つかみの砂だったのだ。
 砂粒は狙いどおり、村井の目や口に飛び込んだ。
 思いがけない攻撃に、村井は目を押さえて顔をしかめると、持っていたパソコンを床に取り落とした。
「五十嵐さん!」
 むんが叫ぶ。
 五十嵐は伏せた態勢からサーベルを引き抜くと、ダンと床を蹴った。
 北尾はむんの行方を追っていたため、五十嵐の動きに対応するのが遅れた。
 サーベルが天井の明かりを反射してきらめいた。
「うっ!」
 あわてて五十嵐に向け直した銃を持つ手が、その手首、肘、肩口と三カ所で寸断された。
 ボトボトと肉片が、床にこぼれ落ちる。
 北尾はネジの切れた人形のように腰を折ると、口から泡を吹きながらも落ちた腕を拾い集めようと、今度は自分が腹這いになった。
 五十嵐はそんな北尾の横をすり抜け、刃を村井に向けた。
 村井は銃を持ったまま目をこすっていたが、彼が最後に見たのは、鬼のような五十嵐の形相だった。
 村井の両腕が、細切れになって展示テーブルの上に落ちた。
 村井はおそらく痛みすら感じる暇がなかっただろう。
 気づいた時には、首は胴からはなれ、頭部も斜めに切り下げられたサーベルによって左右に泣き別れとなり、床にぐしゃりと転げ落ちた。
 それらは、むんがまばたきを一回するあいだの出来事だった。
 五十嵐は信太に駆け寄った。信太が薄い目を向ける。
「──閣下、さすがですー」
 彼の下半身はすでにない。
 むんも駆け寄り、信太の冷たくなった手を握った。
「は、はは。閣下といっしょに世直しするつもりでしたのにー、できなくなりましたー」
「信太よ。お前は立派な日本男児だ」
 五十嵐は押し殺した声で言った。
「──ありがとう──ございますー。閣下のご武運を──陰ながらお祈りしておりますー」
 ロウソクの火が消え入るように、信太は事切れた。
 ふたりはしばらく無言でその死に顔を見つめていた。
「お嬢さん、私はこの男と約束をしたのだ」と五十嵐がしみじみとした声で語り出した。「腐った男どもの性根を叩き直し、日本男児の精神を注入し、この国を良き方向へと導く尖兵になってやろうとな」
 むんは手の平を広げた。信太の手はすでに砂となって崩れていた。
「リアルが何であるかを聞いた後、信太は私に訊いた。『閣下は元の世界に戻られるのですか?』と。私が戻るつもりはないと答えてやると、うれしそうに喜んでおった。それなのになぁ」
 背後で苦しげな声が上がった。北尾はまだ生きていた。
 五十嵐はすっと立つと、彼のそばにいき、無言でサーベルを一閃した。北尾の首が転がった。
 辺りは一面、真っ赤な砂の海だった。
 むんは胃の具合が悪くなるのを必死で我慢し、
「連絡を受けた敵がすぐにやってきます。データを手に入れたら、急いで逃げましょう」
 そう言って携帯電話を取り出した。専用ケーブルを引き出して、投影装置のコネクタにはめるだけ。
「あっ、……接続端子が壊れてる」
 迷彩服のどちらかが撃った流れ弾が当たったようだ。
「どうしよう。コピーでけへん」
 むんは頭を抱えた。データを持って帰れなければ、すべての苦労が水の泡ではないか。
 落ち込む彼女の目に、村井のパソコンが映った。
 もしやと思い、拾い上げる。ドキュメントフォルダに『WIBA地図』というアイコンがある。
 むんはダブルクリックした。すると画面に、テーブルの上に投影されたものと同一の立体映像が現れたではないか。
「よし!」
 むんは握りこぶしを作った。先に入手していた迷彩服たちに配布された物だろう。
「五十嵐さん、ありました! これで万事OKです」
「うむ」
 むんはノートパソコンを閉じようとした。その時、地図データの隣りに並ぶ別のアイコンに気がついた。
 ファイル名は『人員配置』。
 試しにダブルクリックしてみる。
 画面に琵琶湖が現れた。周囲に無数の赤い点があり、どれもが動きつつある。動いていく先は──WIBAのある近江舞子だ。さらに拡大する。赤い点はWIBAに集結しようとしている。
 画面に映っているのは、迷彩服たちのリアルタイムの配備状況なのだ。
「スゴい。これがあれば敵の裏をかけるかも──!」
 五十嵐は取り出した印籠のような小型ケースに、信太の身体の一部をすくいとっていた。すでに信太の頭部も砂のかたまりと化していた。
「行きましょう。五十嵐さん」
「うむ」
 ふたりは玄関に駆け上がった。
 しかし自動ドアを出た途端、三台のジープが急ブレーキをかけて目の前に止まり、行く手を阻まれた。
 迷彩服たちがマシンガンや銃を手に、バラバラと降りてくる。
「お嬢さん、柱の陰に隠れていなさい」
 言うが早いか、五十嵐はサーベルを抜いた。
 その目は静かな怒りに燃えていた。
 銃弾が飴のように降り注ぐ。五十嵐はそれをすべて薙ぎ払い、叩き落とした。
 彼は再び、鬼と化していた。信太の弔い合戦だった。
 ──わずか五分後、生きている迷彩服はひとりもいなかった。
 路上には点々と落ちた指。寸断された胴。転がった首。
 地下展示室の再現だった。
 いつしか、むんは泣いていた。
 なぜ自分はこんな光景を見なくてはならないんだろう。
 なぜこんな痛みを感じなくてはならないのか。
 五十嵐はしかめた顔でサーベルを鞘に収めると、片手を立てて死者を弔った。
「脇腹は大丈夫かね?」
 戻ってきた五十嵐が訊ねた。
 むんは初めて自分の身体を点検した。裂けたTシャツの下で、銃弾のかすめた箇所が血をにじませていた。
「大丈夫です。これっくらい」
 むんは強いて微笑もうとしたが、あふれる涙が一向に止まらない。
 そんなむんをいたわるように見つめる五十嵐も、ポロシャツ、スラックスともども、さんざんに返り血を浴びて、どす黒く染まっている。
「私は今日初めて、正気で剣を振るった」
 五十嵐はそう言うと、迷彩服たちの遺骸に向かって黙礼した。
「では参ろうか」
「──はい」
 ふたりが記念館を後にした頃、太陽はようやく傾き始めていた。


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