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-249- 第18章 湖上都市へ (6) |
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野宮助教授は無人のレジにコインを置いた。その手がすぐにガムのパッケージを剥きにかかる。 コンビニにはほとんど品物が残っていない。店員の姿もない。彼が割れた入口から覗いてみたところ、ガムの箱が落ちていたので誘われるように足を踏み入れたのだ。 タダでもらっていくのは盗みを働くようで気が引ける。彼は律儀に代金を置いた。 銀行もカードも機能停止中だ。財布の中身も残り少ない。 (給料日は、まだ先だというのに) ふとそう思ってから苦笑した。その日までこの世界があるのかどうか。 ガムを口に放り込むと、蜜柑の甘酸っぱい味が広がった。この味が消えるまでの短い時間、彼はイヤなことを忘れることができる……とも限らない。 「助教授」 「──なんだね」 ガムを噛むアゴの動きを止める。 「このリアル探知機、もう少し感度を上げることはできませんか?」 野宮は白衣のポケットに両手を突っ込み、シュウと名乗る迷彩服に向かい合った。 「無理だ。大学でも話したとおり、百メートル圏内に入らないと検知しない。元来人間の発する電波は微弱なものだ。その点はリアルも同じなんだよ。まあ、あと数日経ってリアルのエネルギーが高まれば別だがね」 「それでは遅い」シュウはこの男の癖で短い言葉を早口でしゃべる。「大津というだけでも広すぎる。我々捜索する側の人数は少ない。とてもカバーしきれない」 「判った判った」助教授は議論はもう結構と言わんばかりに両手を挙げた。「せいぜい努力しよう。過度な期待は困るがね」 生返事である。野宮が背中を見せて立ち去ろうとすると、 「あと、昨夜のようにあまりひとりで出歩かないでください。身の安全を保証できない」 「数ヶ月ぶりに大学の外へ出たんだ。散歩ぐらいさせてくれたまえ」 野宮は手をひらひらさせつつ、駅前の移動研究所に足を向けた。 JR堅田駅。琵琶湖大橋とは目と鼻の先である。 野宮がトレーラーに必要機材を詰め込んで、ここに到着したのは昨夜のことだった。 同時刻、リアルの柊が橋のたもとで目撃され、迷彩服たちと交戦状態に陥った。柊は鬼神のように奮戦し、迷彩服側には多数の死傷者が出たという。 野宮は遅れて現地に踏み込み、性能を上げた改良型のリアル探知機を肩に下げて、迷彩服に命じられるままに調査をおこなった。しかしながら、リアルの反応は皆無だったと、野宮はシュウにそう報告した。 蜜柑の味を噛みしめながら、野宮はてくてくと歩く。 (おや?) 湖西線に沿って伸びる国道を左へ折れればJR駅前のロータリーである。移動研究所はそこに駐車してある。 今その曲がり角の近くで、一台の乗用車が迷彩服たちに取り囲まれて立ち往生していた。 「何なんですかァ、あなたがたはァ」 平凡な身なりの男が運転席でうろたえた声を上げている。迷彩服たちは単に任務として乗用車に止まるよう求めたに過ぎない。 「アンタ、戒厳令を聞いてないのか? こんなところをどんな理由があってのんびり走ってる」 「ドライブですよォ、戒厳令ったって法的拘束力はないとテレビで言ってましたよォ。それにあと数日で世界が終わるなんて噂もあるしィ、ずっと家に閉じこもってたストレスもあるしィ、この際、住み慣れた琵琶湖を一周しようかなって思い立っただけなんですゥ」 「ひとりでか? 家族はどうした」 「出たくないって言うもんですからァ」 (なるほど、そんな気分にもなるものか。しかし世界の終わりが噂されているとはな) などと野宮が尻を掻きながら眺めていると、また別の車が南からやってきた。これも迷彩服によって停止させられた。こちらは老夫婦だ。 「一生の記念にと思いましてな。琵琶湖を周遊するつもりです」 先の男と似たような理由である。ひょっとしたらネットなどを通じて、そんな気運が高まっているのかもしれない。 迷彩服たちは、割り当てられた仕事をこなすべく、カメラで運転手の顔を撮影し、リアルの顔画像と照合した。変装程度なら一秒で見破る。もちろん身分証の確認もおこなう。 空をヘリコプターが横切っていった。迷彩服のひとりが耳を押さえながら話しているのは、そのヘリだろう。 「──車が? 数えきれないほどの台数が国道を北上しているだと?」 むんは感心した。 信太がこれほどの策士だとは思いもよらなかった。 集まった乗用車が一台また一台と駐車場から出て行く。 信太がその一台一台にしゃちほこばって敬礼を送っている。その横には、悠然と笑みを浮かべながら五十嵐が鎮座していた。 「不思議な光景だねえ。時代錯誤じみてるというか」 久保田がアゴをかきながら言った。彼の脇には常に寄り添うように和久井助手がいる。久保田は時に迷惑そうな顔を見せたが、彼女は気がつかないのか能面のような顔を崩さない。 「おかげでわたしたちが動きやすくなるのは確かね」 むんは相づちを打ちながら言った。 空のメッセージを見て、萠黄からのメールを受け取り、自分たちも近江舞子へ移動しようと決めてから、さて足をどうするかという問題が、むん、久保田、伊里江、五十嵐の間で議論された。そこへ七人乗りのワゴン車に乗って帰ってきたのは信太だった。 「駅前のレンタカー会社からー、借りてきましたー」 おおーと皆は手を叩いて喜んだ。議題は道中の心配へと移ったが、 「それもー、ワタクシの一存で手配してみましたー。このコッテージ村近在の人々に集まってもらってますー」 信太の策によれば、彼らに車を出させ、四方に走ってもらおうというのだ。攪乱戦法である。 「コッテージ村最盛期にはー、彼らも地元民としてかなりウチからの恩恵をこうむったハズですー。頼めば請け負ってくれるでしょー」 ところが集会所に集まった面々は渋い顔をした。彼らは戒厳令や社会情勢の不穏なことを盾に、首を縦に振ろうとしない。 それはそうだ。いくら過去に世話になったとはいえ、あまりに危険過ぎる。みんな怪我を恐れて家から一歩も出たくないのに、なんと琵琶湖を一周しろというのだから。 むんや久保田も精一杯、説得を試みた。ここで自分たちを助けてくれることが明るい未来を切り開くのだと。しかしそれにもほとんど耳を貸す者はいなかった。 「よっく判りましたー」信太は膝を叩いて立ち上がった。「たぶんあなたがたはー、空腹のあまり動けないのではないでしょーかー?」 むんは集まった百人ほどの住民の顔を見渡した。どれも頬がこけて青白い。食糧も既に底をつき、空きっ腹を抱えて、部屋の隅でじっとしている日々に違いない。 「しばしのお待ちをー」 信太は配下の若者を呼ぶと、鍵束を渡して耳打ちした。若者は頷いて集会所を出て行った。 やがて十分と経たないうちに、ぞろぞろと若者たちがやってきた。手に手に山のように食糧を携えている。米やパンをはじめ、野菜も数知れず。中でも住民が歓声を上げたのは、今や希少価値の冷凍肉だった。 「ワタクシのーコッテージ村にはー、地下貯蔵庫がありましてー、ここには多量の食糧が備蓄しておりますー。皆さんにお分けしたいと思いますのでー、どうぞお持ちくださいー」 住民たちの顔色が明らかに変わった。中には拍手をする者、涙を流す者もいた。 「その代わりに!」信太はピッと締まった声を出した。「代わりと言っては何ですがー、皆さんのご協力をぜひとも仰ぎたい。これを食べて元気になったら、ワタクシたちを助けていただきたいのですー。たった一日、いえ半日で構いませんー。お礼はコレでー!」 信太は冷凍肉のパックを片手で突き上げた。全員の視線が彼の手に集中する。 「近江牛を食べたいかぁーーー!?」 「イエーーーッ!!」 こうして『車もたくさん走っていれば、リアルの一台くらいは目立たない』作戦は実行に移された。 |
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