Jamais Vu
-244-

第18章
湖上都市へ
(1)

 水辺で引きちぎったヨシを口にくわえながら、小田切ハジメは相変わらずの仏頂面で、打ち寄せる波を見るともなく眺めていた。
 まだ頭の奥底がくたびれたように重い。
 足許の小石を拾って、座ったまま湖面に投げた。水鳥の一群がバッと飛び立った。
 ふと、子供の泣き声が聞こえた。
 ハジメは尻を払いながら、声のするほうに歩いていった。水鳥のいた辺りだ。
 小さな頭が丈の高い草の間に見えた。四、五歳くらいの少女がひとり。岸辺の砂地に両足を投げ出して泣きじゃくっている。近づくと少女はハジメに顔を向け、わずかのあいだ泣き止んだが、また激しく嗚咽し始めた。
 ハジメは彼女の泣く理由が判った。
 少女は裸足の足の裏からドクドクと赤い血を流している。すぐそばに真っ赤に染まったガラス瓶の欠片が落ちていた。
 水鳥の声に誘われるかして無心に駆けてきたのだろう。誤って踏んでしまったらしい。縦に割れた傷口が痛々しい。
 見知らぬ男の接近に少女は身体を強張らせた。ハジメはそれを無視して少女の足許にひざまずくと、血の滴る足をつかみ、無造作に持ち上げた。
 生暖かい血液が手の平にかかる。
 ハジメは構わずその手を傷口に当てた。
 すると、少女の足の裏は徐々に熱を帯び始めた。ハジメはさらに手の平に力を込める。
 脳裏には、京都工大の地下で見た光景が浮かんでいた。萠黄はこうやって頭を割った父親を介抱した。見よう見まねなのだ。
 三十分もそうしていたろうか。少女はすでに泣き止み、ぽかんと口を開けたまま、ハジメの顔と自分の足を交互に見つめている。
 女の声がした。ひどく取り乱した調子で名前を呼んでいる。やがて姿を現した女はハジメに気づいて驚いた様子を見せたが、自分の娘が片足を彼の手にゆだねているという奇妙な光景を見て、ヒッと声を上げた。
「わたしの娘に何を!」
 母親はつんのめるように駆け寄ると、ひったくるように少女を抱き上げた。
 足の裏は、すでにどこが傷口だったのか判らないくらいに完治していた。
 娘を抱き上げた母親は、振り返りもせず一目散に来た道を駆け戻っていった。
 娘の瞳は最後までハジメを捉えていた。そして視界から消える直前、その手をかすかに振ってよこした。
 ハジメはまだ熱の残る手をズボンのポケットに入れると、つまらなそうに歩き出した。
 湖岸を渡る風に、頬までかかる前髪が揺れる。
 太陽は中点にあり、波は穏やかだ。
 くわえたヨシを笛に見立てて、妙な音色を奏でなどしているうちに、ヨシ原の尽きたところに出た。
 見捨てられた小屋がひとつ。その扉がギイと音を立てて開き、やっと帰ってきたという顔で萠黄が出迎えた。
「どこに行ってたん? おじいさんがやっと目ェ開けはったよ」
 萠黄の頭越しに、齋藤が布団の中から「よお」と手を挙げた。清香を脇に侍らせて、彼女手づからお粥を口許まで運ばせている。
「スケベジジイが」
 ハジメは地面にツバを吐くと、また海岸へと歩いていった。
 昨夜、彼らは柊がアジトにしていた喫茶店を出ると、琵琶湖岸へと急ぎ逃げた。たまたまクルーザーが舳先を連ねているところに出たので、特に小型のものを選び、無断で拝借した。萠黄も清香も操縦などできるはずもない。リアルパワーで動かした。早い話が、後ろから“押した”のである。おかげで無用なエンジン音を発することもなく、誰にも気づかれずに湖へと出ることができた。
 クルーザーはひたすら直進し、琵琶湖タワーの対岸へと彼らを連れて行った。
 とにかく柊の目の届かないところへ。
 しかし柊は空を飛ぶことができる。追ってこられたらこちらもリアルパワーで応戦する他はない。しかし萠黄の身体は歩くのも億劫なほどだし、清香に大立ち回りは無理だ。
 明るい月に照らされた夜の琵琶湖は、奈良育ちの萠黄に、言葉にできない感動を与えた。だが今はそれどころではない。今度、柊に捕まったら麻酔くらいでは治まらないだろう。
(あの人にまで裏切られて……。もう誰も信用でけへんなあ)
 今さらながら単独行動(清香もいっしょだったが)に出たことを後悔した。考えてみれば、自分だってむんたちを裏切ったんじゃないのか──。
 船を操るのは想像以上に難しく、水の上を左へ右へと走ったあげく、砂浜の上にドッと乗り上げた。
 そこは幸運にも人里離れたところだった。彼らは人知れずに上陸することができた。ふたりの男をリアルパワーで運搬する清香はすでに疲労の限界を超えていた。ようやくのことで空き家を見つけ、空中を滑らせてふたりを中に入れると、彼女も気力が尽き、そのまま倒れてしまった。
 それでも翌朝目覚めた清香は、十分に元気を取り戻していた。これもリアルパワーのなせる技か?
 齋藤老人が意識を取り戻したのは昼過ぎだった。
「エセ坊主め、年寄りをおちょくりよって!」
 老人は頬を膨らませて柊を罵倒した。隙をつかれて麻酔剤を打たれたため、柊の野望については、萠黄から聞かされてようやく知ったのだった。
「後遺症は残らなんやろな。生きてきてこれまで病院の世話になったことはないっちゅうのが、わしの自慢やさかいな」
 萠黄たちは食糧を探しに行った先で、ここが近江八幡であることを知った。
 すでに今朝早く、ギドラに頼んで、むんにメールを送信した。勝手な行動を謝罪し、柊の裏切りを伝え、堅田に行くことは危険であると伝えた。
 返事はまだ来ない。
 萠黄はハジメを追うようにして小屋を出た。
 バーチャル世界が誕生して、今日で十日目。
(これから、どないしたらええんやろう)
 昨夜、柊を訪ねてきたのは、正真正銘の真佐吉だったのだろうか。だとしたら自分たちが逃げ出して、柊はさぞかし困ったことだろう。
 ハジメは見晴らしの良いところで木に寄りかかり、ヨシ笛の練習に余念がない。萠黄がそばにいっても知らんぷりだ。
「ええ天気やね」
「………」
「あそこに浮かんでるの、沖島っていうんやて」
「………」
「右のほうに見えるの、何やろう。あんな岸辺にビルが建ち並んだりして」
「フローシティー」
「えっ?」
 どこかで耳にしたことがある。萠黄は記憶をまさぐった。


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