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-243- 第17章 裏切りの湖畔 (16) |
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灰色の霧は萠黄の足に沿って這い上がると、ジーンズの隙間から彼女のふくらはぎにチョンと触れた。 (つめたっ!) ひやっとした感覚が萠黄に意識を取り戻させた。灰色の霧はわずかばかり後退する。それでも別の方向に触手を伸ばすと、一気に飲み込んでやろうと狙いをすます。 (気色悪う。あっち行けっ!) 萠黄は無意識に大きなゴミ袋をイメージし、灰色の霧に覆いかぶせた。霧は逃げようとするが、ゴミ袋の動きのほうが速い。 (サクサク吸い込んだれ〜) 萠黄の念が通じたように、ゴミ袋はどんどん巨大化し、霧を飲み込んでいく。その光景はさながら、体内に入った異物を攻撃する白血球を連想させた。 ゴミ袋が活発に動けば動くほど、萠黄の意識ははっきりとしていく。彼女は気づいた。 (これもリアルの能力なんや。体内に注入された麻酔剤を除去しようとしてるんやな) じっさい指先に感覚が戻ってきたし、首がわずかだが左右に動かせるようになった。 萠黄は目をぎゅっと閉じ、イメージ力のアップに集中した。ゴミ袋は今や強力な掃除機のようにガンガン霧を吸い込んでいく。 ついに最後のひとつかみを吸い終えた時、萠黄は嘔吐感を催し、畳に両手をついて、口中のモノを吐いた。 ドロリとした液体がこぼれ落ちる。 体外に排出された麻酔剤だ。 萠黄は背中を壁にもたせかけ、口許の汚れを手の甲で拭った。 ようやく動けるようになった。しかし身体はまだ完全に覚醒したわけではない。立とうとしても腰や膝に力が入らない。 (急いで逃げんと、柊さんが戻ってくる) 両手でキッチンの端をつかみ、どうにか立ち上がることに成功した。が歩こうとするとバランスがうまく保てない。 「はいほうはん(齋藤さん)……はひへはん(ハジメさん)……」 呼ぶが応えはまったくない。 ところが、思いがけぬ応答が別の方角から飛んできた。 「萠黄さん、いるの?」 (その声は──) 「ひよははん(清香さん)!」 遮るものがなくなった窓の縁から、清香の顔がヒョイッと現れた。萠黄は(助かった!)という安堵感で畳の上にへたり込んだ。 清香は横たわる齋藤らに驚いたようだが、 「誰もいないの?」 と訊ね、萠黄が頷くと、ガラスで怪我しないよう、注意深く窓枠を越えて入ってきた。 「戻ってきれふれはんやぁ。うれひー」 萠黄は感謝の気持ちを声にした。 「うん。でもギドラ君の助言のおかげよ」 「ヒホハが?」 「彼がわたしの携帯に来て、萠黄さんのピンチを教えてくれたの」 清香は携帯を萠黄の前に出した。ギドラが変わらぬ姿で飛翔している。 《やあ、大変だったね。ところでボクが化けた柊の父親はどうだった? 彼はほとんど信用してたよね。彼の父親は県会議員だったんだ。しかもなかなかの外交家、悪くいえば出しゃばりだったので、あちこちに映像が残ってるんだよ。おまけに彼の秘蔵日記が選挙事務所のサーバーに残っていてね。誰も知らないんだけど。それを一通り読んだら息子の行状が全部判ってしまったよ。ハハハハハ》 萠黄は力なく微笑んだ。それを見てギドラは言い添えた。 《そうそう、携帯が壊されたのは残念だけど、モジ君はボクが助け出したから安心しなよ》 「あひがほう」 清香は部屋をぐるりと見渡した。 「急いで逃げなくちゃね。でもこのふたり……」 清香はハジメに近寄り、最初は軽く、そして二度目は少し力を込めて頬を張ってみた。しかし十代の青年はムニャムニャと言うだけで目覚める気配は皆無だ。 「どうしよう。男の人をふたりも抱えて運べるわけないし」 「できまふ」 「無理よ。どうやって?」 「リアルのひはら(力)があれば」 ふたりを風船に乗せるようなイメージを描けばいいと萠黄はアドバイスした。 清香は試してみた。すると一分と経たないうちにふたりの身体が畳から浮上した。 「ほのまま、ほのままで、窓はら外へ押ひ出すの」 清香は手の平を前に差し出す。するとまるで透明なフォークリフトを操作するように、ふたりの身体は宙を滑っていった。清香は膝を曲げ、両腕をそのままの形で前進する。萠黄はいつかテレビで観た『気功』を思い出した。 (彼女の場合、集中力のレベルが高いんや) 萠黄は清香の飲み込みの早さの秘訣を知った。 「どこにいる!? 私はここだ!」 観覧車を前に、柊は呼びかけた。 先ほどから湧いてきた雲が月の光を遮っている。 柊は全身の神経を周囲の空間に張り巡らせた。もちろん、そうイメージするのだ。彼はこうやってこれまで幾度となく困難を乗り越えてきた。彼の呼ぶ“神経レーダー”で。 リアルキラーズの襲撃を受けた時のような混然とした気配はない。その代わり、彼のレーダーに感応したのはたったひとつの“点”だった。 (ひとりで来たな。しかもこの反応の強さはどうだ。まさしくリアルそのものだ。やはり真佐吉か? ヤツに間違いあるまい。だとすれば即交渉開始だ。うまく取り入れば、思い通りに操ることができるかもしれないぞ。どうせ研究一筋の世間知らずで、影武者などという子供騙しの手を使うような人間だ。俺が坊さんキャラを通せば、案外俺に尊敬の念を抱くかもしれん。さらには俺の持つパワーを見せつけるのも有効だろう。この観覧車を引きずり倒した時のようにな。フフフ) 柊は両手を合わせて拝む形をとった。そしてゆっくりとした口調で呼びかけた。 「そこにいるかた。出てきなさい」 すると横倒しの観覧車の上に人影が現れた。 「──あなたは、柊さんではありませんか?」 男の明瞭な声が問いかけた。 「いかにも柊拓巳です。あなたは真佐吉さんですね」 しかし長身の男はそれに応えず、鉄骨の上を急ぐでもなく降りてくる。 その時、雲間から月が出てきた。辺りに月の光が降り注ぐ。 長身、長髪、ジージャン。真佐吉のアイテムとことごとく合致する。どうやら本物のようだ。 「こちらへいらしてください、真佐吉さん」 柊は迎えるように、右手を差し出した。 長身の男はしかし、一歩手前でスッと鉄骨の中に飛び降りた。柊は男の姿を一瞬見失った。 「真佐吉さん?」 柊は手を挙げたまま、ゴンドラとゴンドラの間を見やる。 カッ、カッ、カッ。硬い靴音が近づいてくる。 やがて人影は月光の下に出てきた。そして柊の前で足を止めた。 柊は驚きのあまり声が出なかった。 真佐吉とは似ても似つかない人物がそこにいた。 しかも柊はその人物を知っていた。 相手は顔をほころばせた。 「私が、最後のリアルだ」 柊の悲鳴が、夜の静寂を切り裂いた。 |
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