Jamais Vu
-242-

第17章
裏切りの湖畔
(15)

 萠黄は目を剥いた。柊が自分に向かって飛びかかってきたのだ。
「うううううう」
 抵抗したくても喉さえ満足に鳴らせない。ましてや大の男を振り払うことなど不可能。されるがままだ。
 柊は萠黄の全身に手を這わせた。そして狂ったようにポケットというポケットを裏返していく。
「うはははは。見つけたぞぉ」
 やがて柊は勝ち誇ったように、萠黄の携帯電話を高々と差し上げた。画面は通話状態になっている。
 発見されてしまった! 萠黄は心の中で肩を落とした。
 彼女は柊の父親を自称する声がしゃべり始めてすぐに、それがギドラの仕業であると見抜いた。霊魂の話で一瞬だまされそうになったが、いくらヴァーチャル世界とはいえ、突飛過ぎる発想だった。
 柊にいつ感づかれるかとヒヤヒヤしていたが、とうとうバレてしまったのだ。
 柊は片方の眉を上げ、つかんだ携帯に怒鳴りつけた。
「オイ誰だ、親父の名を騙ってるのは!?」
(そうか、彼はギドラのことは知らへんのや)
 柊とは京都工大から別行動だったため、ギドラの存在が仲間内に知られた時にはいっしょではなかった。
「もうバレてんだぞ、お前は誰なんだ!? どうやって親父や俺のことを調べた!」
 あくまでも萠黄の仲間が父親に成りすましたのだと思い込んでいる。
「──そうか、あくまで黙秘する気だな。それならこちらにも考えがある。萠黄がどうなってもいいんだな?」
 柊のもう一方の手が萠黄の首筋に伸びた。すると、
『バカ息子よ、これ以上の恥の上塗りは控えよ!』
 携帯が一喝した。柊はヒッと首をすくませる。やはり父親の声(だろうと思われる)でドヤされると反射的に身体が反応してしまうのだ。いや、まだ偽物かどうか半信半疑なのかもしれない。
『お前は昔から動物を虐待する癖があったな。表沙汰になるのを父がどれだけ苦労して揉み消したか、知らぬはずはあるまい。今度、何か仕出かしても父は力にはなってやれんぞ』
「てめえがそんなことが言えた義理か、エセ議員が!」
 柊は半狂乱になって携帯を壁に叩き付けた。そして隅に立て掛けてあった野球バットを握ると、携帯目がけて力まかせに振り下ろした。
 ガツンッ。一撃で筐体が変形し液晶画面にヒビが入った。柊は容赦せず、なおもバットを叩きつける。携帯は破片を撒き散らして粉々になってしまった。
 怒りの治まらない柊は窓に近づくと、振り上げたバットで今度は窓ガラスを割り始めた。破片は寝ている齋藤らの上にも飛び散って畳の上に散乱する。
「クソ親父め、死んでまで俺を縛ろうとしやがって!」
 ガラスの次には雨戸が犠牲になった。やがて雨戸も外れ落ち、夜の暗闇に向かって柊は大声で吠えた。
「真佐吉ぃーっ、出て来ーい! お前が欲しがってるリアルは俺が拉致した! 欲しかったら取引に応じろ!」
 絶叫は琵琶湖の広い空に吸い込まれるように消えていく。柊は肩で息をしながら、ずるずると腰を落とした。ジャリッとガラス片のこすれる音がする。
「おい、萠黄さん……まだ起きてるか?」
 柊は萠黄の目が自分を見たのを確かめると、自嘲的な笑いを浮かべた。
「恥ずかしいところを見せてしまったな。確かに俺は柊家のお荷物だった。生前の親父は県会議員、お袋は地元の私立高校の教頭、兄貴と姉貴はそれぞれ有名大学を出た市会議員と国家公務員ときた。できそこないの俺は小さな頃から柊家の問題児だったわけよ。……だがな、俺は親父の薄汚れたやり口を知ってる。どれだけたくさんの弱者が泣きを見たかも知ってる。今は兄貴が地盤を引き継いで、親父と同じことをしてやがる。しかし俺は違うぞ。あんな腐った連中はこちらから縁を切ってやる」
 柊は大きなガラス片を、手も使わずに空中に持ち上げた。そして目を動かすだけで破片は外に飛び出していった。ガチャーンと割れる音。
「俺がリアルに選ばれたのはきっと運命だ。腐った連中を粛正し、この世を糾せという、いわば神のお告げだ。……袈裟を着ていて、神様もないもんだ」
 柊は重そうな黒袈裟を脱ぎ捨てる。下はTシャツ一枚きりだ。色はやはり黒だが。
「萠黄さん、俺たちにはこのパワーがある。リアルはこの世界ではエリートであり、リーダーとなるべき存在だ。元の世界に戻って、ひ弱な一市井人として生きていくより、この世界を人類の理想郷に変えようと努力すべきだ。そのほうがよほど立派な思想だとは思うが、どうだ?」
 その時である。
 夜の向こうで拡声器の声が響き渡った。
『リアルの人々よ、どちらにおられる! 私は伊里江真佐吉である! あなたがたを迎えにきた』
 柊は夢から醒めたように顔を上げた。
「真佐吉だと?……あれは遊戯施設の管理所にあるマイクの音声……まさかまた偽物じゃないだろうな。ククク、偽物ならすぐに八つ裂きにしてやる」
 のそりと立ち上がると、軽い身のこなしでひらりと窓枠を飛び越えた。
「そこを動くなよ。もっとも動きたくても無理か」
 萠黄に捨て台詞を残し、柊はゆっくりと表のほうに歩み去った。
 萠黄は手足を伸ばしたまま、天井を見つめていた。
(柊さんの目論見どおり、真佐吉さんが現れた。もしも真佐吉さんが柊さんの提案を受け入れたりしたら、齋藤さんとハジメさんは──)
 逃げるなら今がチャンスだ。しかし。
 萠黄はありったけの気合いを込めて手足を動かしてみた。かろうじて筋肉がぷるぷると震えるだけで、五ミリと動かすこともできない。
 そうしているうちに意識が遠のき始めた。ついに麻酔剤が脳内に侵入したのだ。
(アカン、このままやったら眠ってまう!)
 萠黄は必死の思いで意識の井戸枠にすがりついた。落ちていくまいとイメージの中で足をばたつかせるが、じわじわと昇ってくる灰色の霧は、生き物のように萠黄の足にまとわりついた。
 ダメだ。薬の力には勝てない。
 萠黄は絶望し、両腕から力が抜けていった。


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