![]() |
-240- 第17章 裏切りの湖畔 (13) |
![]() |
柊は落ち着かない素振りで腰を浮かした。そんな彼に萠黄が声をかける。 「いま声がしましたよね。まさか、裏から敵が──」 柊はハッとしたようだった。目だけを萠黄に向けると小さく頷き、そこにいなさいと手で合図した。 萠黄の全身にドッと汗が噴き出した。柊が演じた戦闘シーンが脳裏によみがえる。映画ではない現実。まさかあれが再現されるのか? 柊は足音も立てず、しかし敏捷な動作で廊下に出ると、そのまま奥へと消えて行った。萠黄はただ全身を耳にして、次に起こることを待っていた。したたる汗を拭いもせず、椅子にかじりつきながら。 一分、二分、…… 何も起こらない。息詰まる時間は刻々と過ぎていく。 反対の壁に目を走らせる。外側から格子のはめられた窓と、流し台の横の勝手口。錠は鎖まで掛けられている。 さっきの声がもしも敵の侵入だとしたら、こんなところでぐずぐずしていてはいけないのでは? 焦りが徐々に募っていく。 三分、四分、…… 首筋が痛み出した。あまりの緊張に身体じゅうの関節が悲鳴を上げ始める。もう限界だ! 萠黄は思い切って腰を上げた。摺り足でテーブルの角をまわり、壁に背中を押しつけ、廊下の奥をうかがう。 聞こえてくるのは、窓越しの波の音ばかりである。萠黄はどうしていいのか判らず困った。 汗でべとついた手で、ポケットから携帯を取り出した。祈るような気持ちで液晶画面を開くと、こんな時に限ってギドラの姿が見えない。モジもいない。 (役立たず!) 思わず苛立った気持ちに逆に勇気を得て、萠黄は柊の後を追おうと決心した。携帯を荒々しく仕舞い、顔を再び廊下の奥に向け、えいやっと足を踏み出した。 入口に吊るされた暖簾よりも姿勢を低くし、ヤモリのように壁に張り付きながら廊下に出る。 廊下の奥は大した奥行きがなく、両側にドアが見える。 今ドアはどちらも開いている。廊下は明かりがついているが、部屋はどちらも消灯されているようだ。 萠黄は背中を壁にくっつけながら進んでいく。隣室のドアが近づいてくる。 向かい側の部屋の中が視界に入った。段ボール箱がいくつも積み上げられている。しかし何げなく部屋の床を見た時、萠黄の身体を戦慄が貫いた。 くしゃくしゃになった一そろいの服が落ちていた。その手足の部分からは砂がこぼれ落ちていた。 もはや原型をとどめていないが、死体だった。 「──萠黄さん」 硬直する萠黄の耳が、柊の声を捉えた。 反対の部屋だ。萠黄は衝動的にそちらへ駆け込んだ。 しかし暗い部屋の中は何も見えなかった。 「どこ?」 暗闇に問いかけた途端、背後から太い腕が首に巻き付いた。彼女にはそれが柊の腕だとすぐに判った。 えっ? と思う間もなく、左の二の腕にチクリとした痛みを感じた。 ウッとうめき声を漏らす。と、首に巻かれた腕はすぐに解かれ、萠黄は床に両手両足をついた。 スイッチが押され、電灯がともった。 明かりの中で萠黄は予想もしなかった光景を見た。 そこは畳敷きの六畳間だったが、萠黄に足を向けてふたりの人間が横たわっていたのだ。 ひとりは、齋藤老人。 ひとりは、ハジメ。 眠っているのか、ふたりとも目を閉じている。 「うーん」 ハジメが軽く寝返りを打った。 そうか、あの声は彼の寝言だったのだ! 萠黄は左腕を見た。そこには針で刺された痕があった。 「萠黄さん、どうか聞いてほしい」 柊。彼は萠黄の脇に膝をついた。萠黄はうつろな目を彼に向けた。 「私もあなたもリアルです。この鏡像世界の人間ではありません。いずれこの世界を破滅に導く時限爆弾のような存在です。我々が望んだわけでもないのに」 柊は鋭い視線を萠黄に注ぐ。萠黄は言葉を発しようとするが、口が痺れたように動かない。 「憎んでもあまりあるのは伊里江真佐吉。人類史上最大の悪人。そんな男が、みすみすリアルを元の世界に戻せる転送装置を後生大事に置いておくと思いますか? 私はすでに破壊されていると読んでいます。つまり、彼の行方を探そうとするあなたがたの苦労は、まったくの徒労に終わるでしょう。私は諦めることを提案したい」 萠黄はパクパクと口を動かす。 「ああ、あなたはこう言いたいのですね。元の世界に戻らない限りはこの世界にも救いはない。引いては、同時に爆発するリアル世界にも救いはないのではないか、と。 教えてあげましょう。それは誤りです。我々リアルもこの世界で生きていくことを考えるべきなのです」 萠黄の肘が折れ、どうっと頭が畳に落ちた。柊はそんな萠黄に優しく手を貸し、畳の上に横たわらせた。 「あなたに謝らねばなりません。あなたが感じたという地震、あれは私が意図して起こしたのです」 萠黄は大きく目を見張った。 「そうです。私は以前から地震を起こす方法を心得ていました。それだけでなく、早いうちからリアルパワーの使い方を修得していました。おそらく私ほどパワーを自在に使えるリアルは他にいないでしょう。しかしそのことを他人に知られたくなかった。だから黙っていました。そのことについては謝ります。許してください」 「………」 「それからもうひとつ、今あなたに注射したのは麻酔剤です。二十四時間は起き上がれないでしょう。ただ、意識はしばらく保つはずです。だからできるだけ手短にお話しします」 柊は尻を畳に落とすと、疲れた声で語り始めた。 「私はね萠黄さん、僧侶でも何でもありません。津山市内の大学病院に勤務する一介の薬剤師です。スキンヘッドは単なる趣味なのです。 世界がひっくり返ったあの日、私は病院で当直していました。明け方、トイレで用を足して部屋に戻ろうとしたところ、視界が突然ねじれ、私は深い穴の中へと落下していきました。そして気がつくと、間取りの左右逆転した病院の廊下に倒れていたのです。……いま思い出しても、よく正気でいられたなと思いますよ。私は自分の頭がどうかなってしまったと疑いましたから。 このままじゃいられない。そう感じて私は、薬品室に忍び込み、身を守るのに適当と思われる薬を持ち出し、そのまま病院から逃げ出しました。朝になって誰かに見つかったら、それこそ正気を保てないと思ったからです。 萠黄さん、あなたに打った麻酔剤も、そのとき持ち出したものです」 萠黄は頬さえ動かせない。それでも頭の中は冴え冴えとしていた。 「病院を後にした私は、人通りのない夜明けの街をふらつく足取りで自宅へと向かいました。左右が入れ替わったというのによくたどり着けたと思います。いや意外に歩きやすいものでしたね、完全なる正反対というのは。 自宅に戻った私は、一歩も家からでませんでした。家族もおらず、もともと友人のいない私には訪問者もいません。親の遺してくれた一戸建ての家で、日がな左右の入れ替わった庭を眺めながら、これからどうしようかと途方にくれていました。いくら考えても答えが出ないので、子供の頃からやっていた空手の型をひとり庭でやったりして……。そんなある日、津山市に比較的大きな地震がありました。私はそれが自分の起こした地震であることを知っていました。まったくの偶然ですが、丹田に力を込め、気合いとともに地面に突きを入れた時、それが起きたからです」 柊は言葉を切った。その目が萠黄を見つめる。 「私は、リアルもこの世界で生きていくべきだと言いました。そのための方法がたったひとつだけあるのです。萠黄さん、あなたも気づいているでしょう? 体内に蓄積されたエネルギーを地震を起こして吐き出し続ければ、リアルだってこの世界で永遠に生きることができるのです。そしてそれが可能なのは、私とあなただけです」 柊は深く息を吸い込んだ。 「萠黄さん、どうか私と結婚してください。そして同じ身の上同士、この世界で手を取り合って、共に生きていきましょう」 |
[TOP] | ![]() |
[ページトップへ] |