Jamais Vu
-239-

第17章
裏切りの湖畔
(12)

 萠黄の首に食い込んだ力がゆるんだ。
「ど、どうしてこんなところに?」
 手を離した柊は、心底から驚いた表情をしていた。
 萠黄は激しく咳き込み、すぐにはしゃべることができなかった。
「すみません。あなただとは思わなかったもので」
「いえ──げほっ──いいんです」
「萠黄さん、おひとりですか?」
 柊は油断のない視線を萠黄の背後に走らせる。
「──はい、わたしだけです」
 清香の名誉のためにも黙っていようと萠黄は決めた。
「そうですか……。まあ、どうぞこちらへ」
 柊は萠黄を奥へと案内した。思ったとおり、家屋は前半分が喫茶店、後ろ半分が住居になっていた。
 狭い三和土があったので靴を脱ごうとすると、
「履いたままでいてください。いつでも外に飛び出せるように。私も土足です」
 敵に対する警戒を怠るなということだ。萠黄は爪先で床を叩き、気持ちだけ土を落として、板の間に上がった。
「適当に腰かけてくださいね」
 萠黄はキッチンに立っていた。テーブルと椅子がある。
「えっと、何か飲みますか?」
 彼にしては珍しく落ち着きのない口調で話しかける。
「いえ、お気遣いなく」
 萠黄にしてもまだ動揺が治まっていない。
「もしかして」柊がハッとした顔を向けた。「私の姿をどこかからご覧になっていたのですか?」
「──ええ、まあ」
 柊は背筋を伸ばすと、ため息をついた。
「そうでしたか……さぞや驚かれたことでしょう。私も自分にあんなことができるとは想像もしていませんでした」そして向かい側の椅子を引いて腰かけ、「あなたの目に私はどう映りましたか?」
 萠黄は言葉に窮した。しかし上目遣いに自分を見る視線に耐えられず、ぼそりと感想を述べた。
「スゴいなぁと」
「スゴかったですか?」
「リアルパワーを自在に使ってはるなぁと思いました」
 まるで先生を前にした子供の答えである。しかし柊は真剣な面持ちで頷いた。
「とにかく必死でした。惨いことをしたなと自責の念でいっぱいですよ。今になって言っても遅いですが……。人間なんて弱いものです。いざとなると命が惜しい、生きることへの執着心が私から冷静さを奪い去ったのです」
「判ります」萠黄も言わずにはおれなかった。「大学を出る時、作業員のひとたちの攻撃を、わたしもリアルパワーではね除けましたから」
「しかし私は僧侶の身──」柊は両手で顔を覆った。「修行が足りませんでした」
 萠黄は清香を帰したことを後悔した。無理にでも引き止め、柊の今の言葉を聞かせたかった。
「でも、萠黄さんはどうしてここに?」
 柊が最初の質問を繰り返した。
「地震です。九時頃に起きた地震、あれは柊さんが震源だったんですね」
「そうなんですか? 私はご存知のように地震の起こしかたを知らないので判りませんでした」
「地震に乗って、柊さんの声が聞こえてきたんですよ。聞こえたのはわたしだけですけど」
「声が? へえ、どんなことを言ってましたか」
「うおおっていう叫び声みたいな」
「なるほど」
「それに、迷彩服たちがこの辺りに集結しつつあるという情報が入ったので」
「私の身に危険が迫っていると、そう推理してくださったのですね。ありがとう!」
 柊はテーブル越しに萠黄の手を握った。萠黄は顔を赤らめた。
「あの、齋藤さんたちはいっしょじゃないんですか?」
 手を振りほどくと、あわてて話を逸らした。
「それが……京都を無事に脱したところまではよかったのですが、県境を越えたところでバランスを崩し、三人ともバラバラに落ちてしまったのです」
 柊は悔しそうに拳でもう一方の手の平を叩いた。
「そうだ。萠黄さん、あなたの話を聞かせてください」
 乞われて萠黄は昨日一日のことを話した。大将が地震を起こしたこと。大将の仲間がバスで侵入し、自分たち仲間は彼らとともに大学を逃げ出したこと。見つからないよう、密かに山越えしたこと、などなど。
「明日には、みんな堅田に来てくれるでしょう」
「そうですか……ありがたいですが、ちょっとマズいかも知れません。なぜなら今ここはリアルキラーズに包囲されています。こんなところに皆さんが来るのは大変危険です」
 そのとおりだ。萠黄は不安になったが、
(清香さんが、きっとみんなに知らせてくれるはず)
と思い、柊にも彼女のことを教えようと考え直した、その時だった。
〈ううーん〉
 家の奥からくぐもった人声がした。
「──誰か、いるんですか?」
 萠黄が訊ねると、柊は明らかに狼狽した。


[TOP] [ページトップへ]