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-236- 第17章 裏切りの湖畔 (9) |
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午前零時。 萠黄はベッドから抜け出した。ウインドブレーカーを手に持って、リュックを背負う。携帯の画面では、穏やかな大海原に浮かぶ小島の上で、ギドラとモジがオセロに興じていた。 カーテン越しの月の光で、むんの布団が規則正しく上下するのが見えた。 萠黄は、横になる前に書いておいたメモをテーブルに置く。『ごめん、先に行きます。萠黄』 足音を忍ばせてドアを開き、コテージの外に出る。 夜気はかなり冷たい。上着のファスナーを上げ、広げた風防を頭にかぶせる。一瞬、コテージの暖気の中に戻りたい衝動に駆られたが、萠黄は思いを振り切るように、夜の闇に向かって歩き出した。 コテージ村のメインストリートまで来ると、月光に映える湖面を見晴るかすことができた。右に目を動かせば、空中に明かりが並んでいる。琵琶湖大橋だ。 改めて萠黄は、あれはヴァーチャルの琵琶湖なのだと再認識する。頭の中の地図を裏返す必要があるのだ。 通りの左の一段下がったところに駐車場がある。信太が言ったとおり、一台の駐車もない。 再び、琵琶湖大橋を見る。近そうに見えて遠そうだ。到着する前に夜が明けてしまうかもしれない。 駆け足になりかけた時、すぐそばのコテージにつななる小道から降りてきた人影とぶつかりそうになった。 「萠黄さんじゃないの。今あなたのコテージに行こうとしてたところよ」 「清香さん」 「よかった。暗い道を歩くのが怖くて、今まで迷ってたの。思い切って出てきたんだけど、会えてヨカッタぁ」 しーっと萠黄は口の前に指を立てる。清香は舌を出して声をひそめたが、萠黄に会えたのがよほどうれしいらしく、握った萠黄の手を離そうとしない。 「じつはね、おじさまと連絡を取りたいのよ」 「おじさま──雛田さん」 「そう。大学から逃げる時にはぐれてしまったの。でも萠黄さんからは、逆探知でわたしたちのいる場所が敵に知れてしまうって言われたでしょ。だから通話もメールも我慢してたんだけど」 状況は今も変わっていない。普通の携帯から電話をかけるのはマズいのだ。 しかし萠黄の携帯なら──。 「ギドラ、取り込み中、悪いんやけど」萠黄は自分の携帯を出し、画面に呼びかけた。「お願いがあんねん」 《なんだい?》 ギドラはオセロ盤を前に、両腕を組んで座布団に座っていたが、首を一本だけこちらに向けて返事した。 「あなたなら、誰にも悟られないように、メッセージを相手の携帯に送ることができるよね」 《雑作もないさ》 萠黄は清香を振り返った。 「だそうです」 「うわー、ありがとう」 清香は早速、自分の携帯でメッセージを作成した。 『おじさまへ わたしは大津にいます。清香』 「打ったわ。これをどうすればいいの?」 すると、いきなり清香の携帯がしゃべり出した。 《ボクがこのメッセージを持って届けにいくのさ》 いつの間にか、ギドラは萠黄の携帯から、清香の携帯に移動していた。 《ふむ。お届け先のメールアドレスはこれか。よし、それじゃ行ってくるね》 金色の煙がぼわんと立つと、ギドラは清香の液晶画面から消えた。 「……スゴいわねぇ、とてもPAIとは思えない」清香はため息混じりに、「萠黄さん、いいわね。こんな素敵な召使いがいるなんて」 「いつもこんなに従順だったらいいんですケド」 萠黄は苦笑いした。 「ところで、どうしてここにいたの?」 「え?」訊ねられた萠黄は困った。しかし隠せるものではない。「じつは──」 萠黄は正直に話した。ひとりで柊たちを助けに行こうとしていることを。 「スゴい、スゴい」清香はあふれんばかりの感動に顔をほてらせる。「リアル戦士の結束が、あなたを呼んだのね」 「いえ、そんな大げさなものじゃ……」 「わたしもいっしょに行ってあげようか?」 萠黄は我が耳を疑った。 ひとりで行くことに不安を感じていた矢先である。ましてや彼女もリアルなのだ。萠黄は思わず答えていた。 「来てくれたら、うれしい」 「オッケー、じゃ出発!」 清香は右向け右で、コテージ村の入口に向かって歩き始めた。萠黄も遅れじとついていく。 ふたりは県道に出た。琵琶湖に下っていく道を進む。 辺りは暗い。背後は山なので暗いのは当然だが、道の両側には住宅が密集している。しかし家々の窓に明かりはなかった。午前零時を回ったとはいえ、普通ではない。 (みんな、死に絶えたんやろか) あるいは家の奥でじっとしているのか。 萠黄は悪寒を覚えた。早く抜けてしまいたい。萠黄は自分が墓場に迷い込んだ気がした。 「ねえ、萠黄さん」清香が弾んだ声で振り返る。彼女は街の雰囲気とは無縁だ。「どうして歩いてるの?」 「どうしてって……乗っていく車もないし」 「違うわよ」 「え?」 「空を飛ばないの? ほら、わたしを助けてくれた時のように」 萠黄は本当に忘れていた。自分の能力を。 「魔法のホウキがないと無理なのかしら」 「いいえいいえ」 萠黄はそう言うと、ポンと地面を蹴った。頭の中では鳥になったイメージを描いた。 彼女の身体はスーッと空に舞い上がった。そして大きなサインカーブを描きながら、電柱の上に飛び乗り、再びジャンプする。まるで体重がなくなったように軽い。そのまま空気の流れに身をまかせていると、両足は羽毛のようにふんわり道路に着地した。 振り向いて清香に手を振る。ふたりの間は五十メートルも離れていた。 「ス、スゴい! スゴい! カッコいいー」 清香が叫びながら駆けてくるので萠黄はまたシーッと注意しなければならなかった。 「いいなあ、あんなに飛べたら気持ちいいだろうなあ」 「あのー、清香さんもリアルなんでしょ?」 「え……あ、そうか、わたしにも才能があるのか」 「才能というか、たぶんできるはずですよ」 「教えて! 飛べたら堅田ぐらい、すぐだもんね」 |
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