Jamais Vu
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第17章
裏切りの湖畔
(4)

「判った! 気球に乗るんやね」
 清香が弾んだ声を上げた。なるほどそれなら確かに空の旅だ。しかし、うれしがるほどのことかな、と萠黄は心の中で首をひねった。清香にはどこかお嬢様っぽいところがある。
「ワタクシたちが忍び込んだ時の話ですな。しかし違ーう。気球では目立ち過ぎます。もっと安全に大津入りできる方法があるのです。皆さんにはこれから実際に乗っていただきますのでー、それまでのお楽しみですー」
 信太は言うだけ言うと、再び食事に没頭した。
 萠黄も空腹を満たすことに専念した。今度いつこんなまともな食事の機会があるのか、知れたものではない。食べられる時に食べておかねば。
 食後にはコーヒーが出た。我慢できなくなったようにむんが質問を切り出した。
「信太さん。あなたがたはどういう団体なの?」
 萠黄も気になるところだ。テレビやネットニュースでは繰り返し彼らの映像を観たが、五十嵐を師事する宗教団体のようなものという印象しかない。
「名前などありませんー。ただ、ワタクシたちは全員閣下に心酔しています。それほどに五十嵐閣下は魅力的なかたでして、この混乱の世に必要なのは閣下のようなかただと硬く信じているわけですー」
 とりあえず、むんも萠黄もフンフンと相づちを打つ。
 信太は言葉を切ると、ロビーで立ち働いていた部下に声をかけ、アレを持って来いと言った。
 部下が持ってきたのは、ミラーボールのような小ぶりのくす玉だった。キラキラと光るのは金ラメだ。
 部下はそれを高々と上げた。信太はコホンと咳払いをすると、下部に付けられた紐を一気に引いた。
 デロンと垂幕が飛び出し、そこに書かれていたのは、

『五十嵐寛壽郎を大統領に!!』

「…………………………大統領……ですか」
「そーなんですなんです。閣下のような逸材を野に埋もれさせておくのは何と言ってももったいない。ならば、この混迷深める我が国の頂点に立っていただいて、ぜひとも悩める国民を良きかたへ導いていただきたい。ワタクシはそう思ったわけでしてー」
 部下たちは垂幕をくるくると巻き上げ、床に散った紙吹雪を片付け始めた。彼らは説明のたびに、こうしてくす玉を割っているのだろうか。
「でも、五十嵐さんは……人を斬ったんですよね」
 おずおずとむんが訊く。萠黄は緊張した。信太が怒り出すのではと思ったからだ。
 しかし、信太は眉を曇らすどころか、待ってましたとばかりに身体をテーブルに乗り出して、
「閣下はこう申されたのです。──信太よ、私が斬った者は皆、ヒトではなかったのだ。その証拠に、見よ、彼らは砂のように溶け落ちただろう。
 信太よ、この国は日本人に化けた侵略者に乗っ取られようとしている。だがそうはさせない。この私が彼らの正体を白日の下に晒してやる。見ておれ──と」
 萠黄は言葉を失った。
(それは、五十嵐さんが正常ではない時の発言では?)
 信太は気づいていないのだろうか? しかしあえて今それを指摘するのはやぶ蛇のような気がする。問題は彼らの行動指針の是非ではなく、彼らが萠黄たちにとって敵か味方か、なのだ。
 京都工大では、味方と信じていた作業員たちに刃を向けられた。あんな目には二度と遭いたくない。
「信太さん!」部下が部屋の外から鋭い声で呼んだ。「閣下が起きられました。現状を報告せよと申されています」
「了解!」信太はすかさず立ち上がる。「皆さんはお食事をお続けください」そう言うと敬礼し、押っ取り刀で部屋を出て行く。五十嵐を心酔しているという言葉に偽りはないようだ。

 萠黄たちがロビーに戻ると、五十嵐はソファに腰かけていた。
「お嬢さんとは前に一度、鉄格子の部屋でお話ししましたな」
 五十嵐は、どこにでもいる好々爺然とした顔で話しかけてきた。彼はサーベルを振り回したことも、地震を起こしたことも記憶していないのだ。
 萠黄は少し悲しくなった。
「大津に向かうというのだね」
 五十嵐の声はどこまでもやわらかく優しげだった。
「はい。──この世界を混乱させた張本人が、そこにいます」
「ふむ。ならば行って、成敗せねばなるまいな」
 萠黄はどきりとした。
 本当に今が正気の状態なのか、それとも違うのか。外見ではよく判らない。地震を起こしたときの五十嵐の瞳は透き通るような不思議な色をしていたが。
「閣下」信太が脇から声をかける。「お疲れでしょうが、急ぐのがよろしいかと」
 そのとおりだ。今頃、バスを見失った真崎たちが狂ったように自分たちの行方を探していることだろう。
「よし。信太よ、まかせたぞ」
「ありがとうございます!」

 午後五時。
 夕暮れが雲を真っ赤に染めている。
 一同は信太の案内で、コテージの裏にやってきた。
 その辺りも生い茂った樹々のせいで薄暗い。
 空の旅。
 いよいよその秘密が明かされる。
 ふと気づくと、鉄製の階段が眼前に現れた。
「さあ、このタラップをお昇りください。まもなく我が機は離陸いたします。どうかお急ぎください」


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