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-229- 第17章 裏切りの湖畔 (2) |
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「まあまあ、そう嘆く必要はありませんよ。きっと直してもらえますから」 「もうわたし、誰も信用できませんわー。大学のお偉い先生だからと安心して伺ったら、どうでしょう、わたしから息子を取り上げて隔離するし、あげくの果てに、元の世界に送り返すとか、それが息子の幸せになるとか、勝手なことをおっしゃって……その結果があれじゃない。実験に失敗しちゃったでしょー」 実験が失敗? 彼女は転送装置の現場にいたはずだ。伊里江真佐吉(じつは影武者)の破壊工作をその目で見ていたはずだ。 実際にあった出来事を都合良く解釈している。息子、いや母親自身にとってメリットかデメリットかでしか考えない。どうやら捏造は彼女にとって日常茶飯事らしい。 雛田は慰める気が急速に失せた。 しかし母親は、ここぞとばかり雛田にすがろうとする。 「ねえ、あなた、雛田さん」 「はい、はい」 「萠黄さん、とかいいましたっけ、そのお嬢さん。息子のPAIを直せるとかいうのはー」 「ええ」 「信用していいものでしょうかねー」 「彼女はコンピュータに関しては恐ろしく才能があるそうです。自分でもPAIを改良していたといいますからね」 「でも、ただの学生さんでしょう? お偉い教授先生でもサジを投げたんですから、無理じゃないですかー?」 サジを投げたのはない。野宮助教授には、そんなことにかかづらわる気は毛頭なかったのだ。 「──大丈夫ですよ。彼女は息子さんの異変に真っ先に気づいたぐらいですから」 「そうねえ。……でもどうして気づいてくださったのかしら、あんな女の子が」 雛田にもそれは判らない。 とにかく母親を車のシートに腰かけさせると、彼は家の中に入っていった。目的地も決まったことだし、そろそろ移動しないとマズい。自分たちのいる場所は京都工大からそれほど離れていないのだ。いつ迷彩服たちの捜索の手が伸びてくるかと思うと気が気ではない。 (その割には、昨夜はぐっすり眠ってしまった) 昨夕、無人のこの家に潜り込んだとき、身も心もくたくただった。 キャンパス内で地震に遭遇し、その後の作業員たちの反乱、台風のように通り過ぎた強い風、バスに乗った暴徒たちの侵入。 気がつくと清香の姿はなかった。 雛田は動揺した。今や彼の生き甲斐は清香だけだ。彼女に対して、父親としての名乗りを上げることこそ、唯一の生きる望みだった。なのに……。 おそらくバスに乗った連中に連れ去られたのだ。そう信じた雛田は、崩れた校舎を迂回し、でこぼこの地面を乗り越えて大学の外に出た。彼と清香が京都まで乗ってきた車が、裏通りに停めてある。 「もし、そこの人!」 壊れた通用門を出ようとした時、呼びかけてきたのが炎少年の母親だった。彼女はベッドに乗せた息子を引っ張ってここまで逃げてきたらしい。 成り行きである。雛田は親子を連れて大学を後にした。そして首尾よく車にたどりつくと、ふたりを乗せて猛然とアクセルを踏んだ。とにかく大学を離れようと。 「炎君。出かけるぞ」 応接室にいた炎少年が、車椅子ごと彼のほうを向いた。 『遅いんだよ。とっくに太陽は上がってる!』 「減らず口は相変わらずだな。お母さん、泣いてたぞ。あんまり親不孝するな」 『家庭内のことに立ち入るなよな。よそ者が』 「マイッタなあ。これが年端もいかない子供の言葉か」 『ふん。身障者はみんな純粋で前向きで、涙を誘う物語の主人公だとでも思ってるのか? 笑わせんなよ』 「お前ン家は金持ちらしいじゃないか」 『金持ちの家の子供は何不自由なく育つから、わがままな性格になるんだと言うつもりか? オッサンもつまらん連中と考えることはいっしょだな。貧乏根性のひがみだよ。そんなつまらん連中がまわりにいたから、こんなクソガキができたんですー』 雛田はやれやれと手近な椅子を引いて腰をおろした。彼は思う。確かに炎少年はクソガキだ。クソガキだが、話に筋が通っていてボキャブラリも豊富だ。知性の高さをうかがわせる。おそらく閉じ込められた世界にいて、良くも悪くもネットだけを相手に、知識や経験を深めていたのだろう。 炎の毒舌トークはそれほど不快ではない。若者のわがままなど、芸能マネージャーをしていれば頻繁に遭遇する、まさに日常茶飯事の出来事だ。 「オッサン、ナニ笑ってんだよ」 「え? いやいや、大したこっちゃない」 雛田は笑みを押し隠すと、少年のそばに寄った。少年は警戒して車椅子を後退させる。 「こら、許可なく近づくんじゃねえよ!」 車椅子の動きは遅い。雛田は素早く後ろに回ると、小さな黒いレバーを押し下げた。たちまち車椅子は制止し、炎の声は聞こえなくなった。 「それじゃ坊主、おとなしく車に乗ってもらおうか」 |
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