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-228- 第17章 裏切りの湖畔 (1) |
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《コラ! いつまで寝とる!》 「も、申し訳ありません!!」 雛田は直立不動の姿勢をとるべく両膝を伸ばした。そして、イヤというほど頭を天井にぶつけた。 「あっつつつ……」 雛田は頭頂部をかかえてシートにかがみ込んだ。ようやく彼は、昨夜からずっと車の中にいたことを思い出した。身の置き所のないまま、運転席で眠ってしまったのである。それが証拠に、額にハンドルの後が付いている。 《こんなところで時間を潰していていいのか?》 ピンクのカバは小馬鹿にした口調で言った。さっきの怒鳴り声はこいつだったのだ。カバ松を投影する携帯電話はダッシュボードの充電器に差されてあった。 「もういい加減、カゲみたいな物言いは止めてくれないか。カバの顔して言われると、腹が立ってくる」 《気にするな。そんなことより》とカバ松は雛田の言葉を適当にあしらって続ける。《例の親子はどうした?》 「ああ、あの人たちは家の中で寝てる。まだ目覚めてないんだろう」 雛田は顎で車庫の壁を示した。そこにはアルミ製のドアがあり、そのまま家の中へとつながっている。 いまそのドアが勢いよく開き、車庫の中に女性が飛び込んできた。駿河千恵子、あの全身麻痺の少年、駿河炎の母親である。彼女は四駆の窓に両手をあててワンワンと泣き始めた。 《進歩はないみたいだな》 雛田も同感とばかり、フウとため息をついた。母親は昨夜からあの調子なのだ。 「息子の言葉を通訳していたPAIがリセットされたらしい。それでいきなり口汚い罵倒を浴びたんだ。泣きたくもなるよ」 《母親に同情するのか? いま息子がしゃべってる言葉こそ息子の本音なんだろ? 「ふざけんな」とか「俺に触んな」とか。 母親のほうこそヒドいじゃないか。わがままな息子のナマの声など聞きたくないってんで、ソフトな口調に修正するところまではいいとしても、自分の好みに合わせて『良い子』を演じるよう改良を重ねた結果、会話の九割以上が捏造だったっていうじゃないか。人権侵害もいいとこだぜ》 「だが、医者が見放すような病気だ。そんな息子を命がけで看病する親の立場にもなってみろ。注いだ愛情がムチになって返ってきちゃあ、たまったもんじゃないぞ」 《とか何とか言って、お前、清香と自分を重ね合わせてるだけじゃないのか?》 雛田はウッと声を詰まらせた。あんまり腹が立ったので、ダッシュボードをひと蹴りし、ドアを開けて車の外に出ようとした。 《待てよ、短気だな》 「お前こそいずれリセット掛けて、元のうすらカバに戻してやる」 《うすらカバだと、お前の相方は務まらんぞ》 雛田はぐうの音も出なかった。萠黄にヒントをもらって、カバ松とコンビ復活だ! と驚喜したのはまだ一昨日のことなのだ。 《そんなことより、お前にメールが来てる》 「メール? 清香からか!」 《まあそうなんだが、ちょっとおかしい。いつ着信したのか、気がついたらメールボックスに入ってた》 「どうせ寝てたんだろうが」 《お前といっしょにするな。しかも差出人の名前もない、単なるテキストファイルだ》 「分析はいいから、内容を教えろ」 カバ松は短い文章を画面に表示した。 『おじさまへ わたしは大津にいます。清香』 「……これだけか」 《だけだ》 「大津といえば、例の迷彩服たちが真佐吉とかいう悪党に罠にかけられた場所だな。ひょっとしてこのメールも罠だったりして」 《お前みたいな一庶民をハメてどうする?》 「まったくだ! すると本物か。……しかし、あの親子を連れて来させるためかもしれんぞ」 《それなら最初から親子の携帯にメールするんじゃないか》 「もっともだ! よし、カバ公、俺たちの行き先が決定したぜ。大津までの経路を探索しといてくれ」 《アイヨ、相棒》 雛田は車を出た。 「奥さん」彼は泣き続ける母親に声をかけた。「あのお、息子さんの様子はどうですか?」 「──あ、あ、あんなの息子じゃありませんー。あの子には何か悪魔が取り憑いたんです! いいえ、いいえ、きっとPAIが暴走してるんですわ、ウイルスに汚染されて……きっとそうに違いありませんわー!」 そしてまた号泣を始める。 母親は自分が仕組んだPAIフィルタ越しの息子の声が、正真正銘の息子の声だと、いつしか信じ込んでいたらしい。今ここで、それは逆なんですよと下手な説得を試みても彼女は聞く耳を持つまい。 |
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