Jamais Vu
-220-

第16章
悪魔の舞台
(6)

「なんやて?」齋藤が素っ頓狂な声を出した。「そんなあっけない……」
 萠黄も同感だ。この目で見るまでは信じられない。
 ハジメがとんとんと階段を駆け上り、踊り場から上を透かし見る。催涙ガスの白い煙がまだ晴れていないので、それ以上近寄れないのだ。
「アレ?」
 迷彩服の声だった。
「貴様、誰だ!?」
(──ん?)
 萠黄も手すりの間から上階を見上げる。なんだか雲行きが怪しい。
 後ろから近づいてきた男がささやいた。
「……どうして昇らないんですか?」
 伊里江弟だった。
「だってガスがまだ残ってるし」
「……吹き飛ばせばいいではないですか。あなたはもう空気を操れるのですから」
 伊里江弟はそう言って、踊り場に上がっていくと、両手を合わせて前に突き出した。
「おおっ?」
 迷彩服は突然の風に驚きの声を上げた。白い煙は一瞬にして消え去った。
 リアルたちは間髪入れず階段を駆け上がる。
 ガスマスクを被った迷彩服たちの足許にひとりの男が倒れていた。丈の長い白衣を着ている。
「この人は……」
 萠黄は男の顔を覚えていた。昨夜、野宮について地下十階までやってきた研究員のひとりだ。
「山上じゃないか! お前、何をしてる」
 野宮の大声が男の名を呼んだ。彼も後からついてきたらしい。萠黄や清香を押しのけて前に出ると、山上のそばにしゃがみ込んだ。
 山上は催涙ガスのせいで目も開けられず、身体を丸めてしきりにむせっていた。
「ゲホゲホ、何するんですか、寄ってたかって……」
「どうしてこんなところにいる?」
「調整室で、ゲホッ、点検業務をおこなっていたんです。それで階段室に出た途端、煙が、ゲホゲホ」
 シュウが山上に顔を近づけ、
「こっちに不審な人物は来なかったかね?」
「来ましたよ、ジージャン姿の長髪の──」
 ガスマスクを外した迷彩服が、山上の胸ぐらをむんずとつかんだ。
「どっちへ行った!?」
「アンタ誰って訊ねたんですが、無視されて通路を上のほうに」
 迷彩服のふたりはすばやく駆け出した。萠黄たちも一拍置いて後を追う。
 エネ研の地下通路は特殊な造りで、ぐるぐると回りながら、螺旋を描いて一本の通路が地上と地下五階をつないでいる。
 いま通路の遥か前方から甲高い笑い声が流れてきた。
「真佐吉!」
「ナメた真似しやがって!」
 迷彩服たちは怒りを沸騰させ、怒濤の脚力で萠黄を離していく。
(なんかおかしい)
 萠黄は走り続けながら、どうにも納得がいかなかった。
(連れて行くといいながらなんで逃げるんよ。ほいで、なんでわたしらがそれを追いかけてんの?)
 あべこべじゃないかと眉を曇らせた。
「いたぞっ!」
 右へとカーブしていく通路の先に青い影がチラッと見えた。靴の紐がほどけたのか、壁際にかがみ込んでいる。
 迷彩服たちはシメたとばかり速度を上げる。萠黄は逆に速度を緩めた。
「どうしてリアルパワーで追いかけないんだ?」
 シュウが不思議そうに訊ねる。萠黄は、
「だって、追いついたって、どうしたらええか」
「捕まえるんだよ」
「それはあなたたちの仕事ですよ」
 シュウは小さく頷き、先に駆けていった。
 真佐吉は靴から手を離すと、驚いたことにこちらに向かって手を振った。
 誰もが呆気にとられた。
 真佐吉は手を振りながら、後ろ向きに走っていく。
 一瞬誰もが毒気を抜かれ、足の動きがおろそかになった。どの目も左右に揺れる彼の手を見つめていた。
「わっ」
「なんだっ」
 前を行く迷彩服たちが次々と転倒した。
 萠黄たちは危うく急ブレーキをかけた。
「なんだこれは……釣り糸じゃないか!」
 ふくらはぎの高さに通路の左右から釣り糸が張られていた。迷彩服たちが転倒したのはこのせいだ。
「あっはははははは」
 また真佐吉の高笑いだ。萠黄は前を睨む。
「アイツが仕掛けたのか?」
「とことんフザけやがって!」
 迷彩服の怒りは頂点に達した。帽子をつかんで床に叩き付けると遮二無二追いかけ始めた。
「絶対殺す!」「当然だ!」
 迷彩服は腰の銃を抜いた。頭に血が昇って状況を把握できなくなっている。
(ど、どないなんの?)
 気がつくと萠黄といっしょに走っている集団は、柊と野宮だけになっていた。野宮はせり出した腹を揺らしながら、驚異的な足の速さを見せる。
「元野球部エースの俊足、いまだ健在なり〜!」
 とうとう出口が見えた。
 真佐吉は自分で閉じたロックを開こうとしている。
 迷彩服は追いつけるか?
 先に重そうな鋼鉄の扉が軋む音をたてて開いた。
 太陽の光が差し込む。
 真佐吉は一瞬早く外に出ると、扉を閉めた。
 迷彩服たちは飛びつくように扉のノブに手を伸ばし、肩口から体当たりした。
(もしまた仕掛けがしてあったら!)
 萠黄は息が止まりそうになったが、幸い爆発は起きず、扉はすんなりと開いた。が──。
「わわわっ」
 ふたりの迷彩服は足を取られて地面に倒れた。すぐ後ろにいたシュウも共倒れだった。
「ええい、役に立たん奴らだ!」
 野宮は柊を抜くと、扉を蹴飛ばして外に躍り出た。
「ありゃ、山中?」
 迷彩服がつまずいたのは、山中の身体だった。彼も昨夜来たひとりである。白衣姿のまま地面に倒れ、気絶している。
「あそこです」
 柊が指さした。青い影はエネ研を出た足を緩めず、芝生の上を正門目指して一散に駆けていく。
「う〜〜〜もう許さん。わしの大事な研究員ををを」
 野宮のターボチャージャーにスイッチが入った。彼の足は砂埃を蹴立てて、まっしぐらに突き進んでいく。
「すごい馬力だ」
 柊も走るのを止めて、野宮の背中を目で追った。
 アッという間に真佐吉と野宮の距離が縮まる。
 だがさすがに野宮にも疲れが見え始めた。一瞬足がもつれた。
 真佐吉は建物の角を曲がろうとしている。
 野宮は体勢を崩しながら、口から何かを吐き出した。ずっと噛みっぱなしのガムだ。
 ガムは宙を飛んだ。
 真佐吉の姿が建物の向こうに消えた。
 野宮は腹を弾ませるようにして地面に倒れた。
「野宮さん!」
 柊と萠黄が追いつくと、野宮はぜいぜいと息を切らしながら、
「わしに構うな。追いかけろ」
と言った。
 萠黄はまた走り出した。建物の角を曲がる。
「えっ、──今度は!?」
 そこにはまた白衣の人物が仰向けに倒れていた。
「するとこれは──山下さん?」
 顔までは覚えていなかったが間違いないだろう。
「……はははははは」
 遠い笑い声。萠黄は声のほうを見る。しかし正門へと続く道は豊かに茂る木々の枝葉に隠されて見えなかった。
 遅れて、シュウたち迷彩服と柊がやってきた。
「真佐吉は?」
 萠黄が正門の方向を指さすと、三人の迷彩服はそちらへと駆けていった。
 柊が山下に気づいた。
「また研究員さんですか」
「そうみたいです」
 萠黄は芝生の上に尻餅をついた。柊も横に並んで腰をおろした。ふたりとも肩で息をしている。
 柊は額に手をかざして木々の間を見つめながら、
「真佐吉という人は……おそろしく……健脚ですね……それにしても……逃げるなんて……一体何をしにきたのでしょう?」


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