Jamais Vu
-215-

第16章
悪魔の舞台
(1)

 午前七時。
 テレビが外の様子を映していた。昨日の雨が嘘のように上がり、雲ひとつない快晴が画面に広がっている。
 ついにこの日がやってきたのだ。いよいよ元の世界、リアルの世界に戻ることができる。萠黄はすでに朝のシャワーを浴び、用意してもらった新品のTシャツとジーンズを身に付け、その時を待っていた。
 ドキドキとソワソワが半々だ。そのせいか身体も少し熱っぽい。
 今朝の朝食はヨーグルトだけだった。転送前には空腹にしておいたほうがいいということか?
 携帯電話を開いてみたが、ギドラの姿はなかった。また小旅行に出かけたのかもしれない。とっちめてやろうと考えていた彼女は肩すかしを食らった。
 午後八時。野宮がテレビに現れた。
《皆さん、おはようございます。昨夜は一部でトラブルがあったそうですが、ぐっすり眠れたでしょうか?
 さて本日はこの世界が誕生して九日目。皆さんにはお待たせしましたが、我々もこの日を待っておりました。予告しましたとおり、電力施設も今朝未明、無事に工事が完了しまして、転送装置の稼働が可能となりました。どうか皆さんは八時半になりましたら、エレベータで地下五階までお上がりください。私は皆さんの故郷へとつながるゲートを開いてお待ちしております》
 相変わらずの演説口調である。萠黄が小鼻を掻いて眺めているとノックの音がした。むんが顔を出した。
「いよいよやね」
「うん──ごめんな、ギリギリまでいてるつもりやったのに」
「それはええよ。早く元の世界に帰って、お母さんを安心させてあげなさい」

 八時半が近づき、廊下には続々とリアルたちが集まってきた。どの顔も期待と不安で上気している。
 雛田は、萠黄やむんと話している清香をチラチラと横目で眺めながら、憂鬱の度合いをますます深めていった。
 昨夜は散々だった。
 萠黄に言われたことで有頂天になり、本来やるべきこと──清香への告白──をほっぽり出してしまったのだ。清香とはそれきりだったため、せっかく高めたテンションがいつの間にやらすっかり下がってしまった。カバ松には完膚なきまでに罵倒される始末。一睡もせぬまま悶々と夜を明かしたのだった。
(それでも告白すべきなんだろうか。お前の父親はこの私なのだと──)
 八時半になった。
 エレベータは静かに降りてきた。扉が開き、和久井助手がおはようございますと挨拶した。
 人々が乗り込む。
 リアルの萠黄、清香、伊里江、柊、齋藤、ハジメ。
 ヴァーチャルのむん、雛田。
 駿河炎と彼の母親は、昨夜遅くに上階へと移された。また、リアルの将軍こと五十嵐もどこかで待機させられていることだろう。
 一同の乗ったエレベータは、駆け上がるように九人を上階へと運んだ。誰もが無言だった。
 到着し、扉が開いた。そこには緊張した面持ちで関係者たちが居並んでいた。野宮はひとり手を叩いてリアルたちを出迎えた。
「やあやあやあ、ようこそ皆さん。さあどうぞこちらへ。おい、そこ、道を空けたまえ」
 手を振りながらリアルを先導する。萠黄も他のリアルたちについていったが、自分の名を呼ぶ声を聞きつけると、そちらへ駆け出した。父親だった。
「いよいよお別れだな。どうか元気でいてくれ」
 萠黄は言葉が見つからなかった。ただしがみついて頷くばかりだった。
 人混みに一段高い雛壇が設けられている。そこにはあの伊椎製作所の副社長が腰かけていた。特等席から高みの見物を決め込むらしい。
 まばゆいほどのライトが研究室を昼間のように照らしている。そしてビデオカメラが砲列のように並んでいた。
(まるで宇宙飛行士を見送るみたいな)
 転送装置が見えてきた。初めて見た時にあった全体を覆う球面ガラスは取り払われていた。
 ライトの光を反射した巨大な六つの輪は、磨かれたモニュメントのように銀色に輝いていた。いよいよここから旅立つのかと思うと、萠黄の心にわだかまっていたものが、どこかへ消えていく気がした。
(後はここにいる人々にすべてを託し、自分は元の世界で平凡な女の子に戻るだけ──)
 装置の脇に迷彩服がいた。一瞬ギクリとしたが、シュウの姿を見つけ、ホッと胸を撫で下ろした。
「警備は万全です。ご安心を」
 彼は萠黄に敬礼した。
 野宮は装置の前にやってくると、腰かけているオペレータに合図を送った。オペレータは頷き、目の前のレバーを引いた。
 作動音が徐々に高まっていく。転送装置が振動を始めた。
 野宮はマイクを取り上げると、テレビ司会者のつもりか、大げさに腕を広げて振り向いた。
「さて、最初に御搭乗なさるのは、どなたですかな?」
 リアルたちは互いに顔を見合わせた。未知の体験。未知の乗り物である。二の足を踏む気持ちは否めないし、男性たちは安直にレディ・ファーストとも言いにくい。
「よっしゃ、ひとつわしからお願いするとしようかな。ジジイ・ファーストや」
 前に出たのは、ビッグジョーク齋藤である。
「人より先に乗ってみたいだけだろ」
 ハジメが横でぼそっとつぶやいた。
 野宮はマイクを振り上げると、大声で叫んだ。
「一人目の挑戦者に拍手ーっ!」
 突然言われてまばらな拍手が起きる。齋藤はあわてて問いかけた。
「挑戦者って──機械はあんじょう動くんやろな?」
「百パーセント完璧に動作します!」
 野宮は大きな腹を太鼓のようにドンと叩いた。
 齋藤は六つの輪の中に足を踏み入れた。人々のざわめきが次第に小さくなっていく。
 野宮でさえ、やはり緊張しているのか、トレードマークのガムを口に放り込むと、激しく噛み始めた。
 萠黄はむんの手を強く握りながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
 いよいよの、いよいよだ。


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