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-214- 第15章 崩壊 (10) |
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萠黄は廊下に飛び出すと、声のする方向に素早く顔を向けた。 一部屋おいて、その向こうが駿河親子の居室である。今そのドアは開いており、転がり出たらしい母親が、廊下の向かい側で床に肘をついている。 萠黄の耳はまるで気圧の変化でおかしくなったように何も聞こえなかった。 彼女は急いで母親に近寄った。母親は部屋の入口から目を離さず、口から泡を吹きながらひたすら何ごとか訴えていた。 入口のドアは全開になっている。車椅子に乗った炎少年がドアのそばに佇んでいたからだ。 少年は前に出てきた。車椅子の部品が引っかかりそうになると、両腕外側のアームパイプから、なんとマジックハンドがするすると伸びだし、器用にドアノブをつかんだ。 少年の声もスピーカーから流れてくる。詰まったような萠黄の耳にはその内容がうまく聴き取れないが、その声はギドラに聞いた声とそっくりだった。 萠黄の足に母親がすがりついてきた。母親の顔は涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。彼女は萠黄を盾に、鬼のような形相で、依然息子に言葉を浴びせ続けている。 車椅子が廊下に出てきた。さらに接近するにつれて、マジックハンドが前に伸びてきた。蛇腹になった関節が伸び、金属の腕が、それ自体生き物のように迫ってくる。 萠黄は二本のマジックハンドを両手でつかんだ。 「もうやめなさい。やめないと折るよ」 おそらくドアの開閉やボタンを押す程度の用しか果たせないだろう弱々しいその金属アームは、萠黄に握られると動きを封じられ、車椅子自体も身動きができなくなった。 「萠黄さん!」 「萠黄さん!」 柊や久保田の声が萠黄の耳を正常に戻した。異変に気づいて部屋を飛び出してきたのだ。 久保田は車椅子を後ろから萠黄から引き剥がし、強引に部屋の中へ連れ戻した。 柊は伊里江の手を借りて、母親を立たせたものの、彼女が息子の部屋に入ることを拒んだので、やむなく空いている別室に担ぎ込んだ。 萠黄は気がつくと自分の部屋のベッドの上に横たわっていた。そばにむんと清香がいる。 「あれ、わたし、どないしたんやろ」 「気がついた?」むんが萠黄の顔を覗き込んだ。「歯を食いしばって仁王立ちしたまんま、ウンともスンとも言わへんし──。しょうがないから清香さんにも手伝ってもろて担いできたんよ」 「──すみません」 萠黄は清香に頭を下げた。 「わたしには?」 「むんは身内やん」 「あれまっ。骨折り損」 むんは笑った。 「炎君の様子はどう?」 「久保田さんがついてるから大丈夫でしょ。それにしても炎君どうしたんやろ。突然、暴走したみたいに」 「さあ」 萠黄はひとまず黙っておくことにした。 清香が頃合いを見計らったように立ち上がった。 「じゃ、わたしはこれで」 「あ、どうもー」 清香は名残惜しげに部屋を後にした。 萠黄が挙げた右手には包帯が巻かれていた。 「マジックハンドで手を切ったみたいよ。大したことはなさそうやけど」 萠黄は白い包帯をじっと見つめて、 「ねえ、むん、覚えてる? 小さい頃わたしが右手を怪我したこと」 「忘れますかいな。小学校の体育館。忌まわしき鋼鉄の黒扉。あの扉、しばらくして撤去されたらしいよ」 「ホンマに? 知らんかった」 「あの頃の萠黄は軽かった」 「むんはあの頃からもう背が高くてデカかったもんね」 「デカかったはよけいデス」 「泣きわめくわたしを保健室まで背負ってってくれて」 萠黄は右手の甲を見た。その時の傷跡がある。 「萠黄だけと違うよ」 「何が?」 「思い出の傷跡。見る?」 むんは前髪をかきあげ、左のこめかみの辺りを指し示した。わずかだがスジ状の盛り上がりがある。 「萠黄を背負って体育館の階段を降りた時、最後の一段で踏み外したんよ。落ちてた石でザリッと」 「うわぁーっ。痛ソー」 「保健室に着いた時にはふたりとも血まみれ」 「それでどないしたん?」 「いっしょに並んで寝てたらカッコ悪いでしょ。だからわたしは絆創膏だけもろて、むんのお母さんが来るまで平気な顔して座ってた」 「……ごめんなさい」 ワッハッハとむんは愉快そうに笑った。 「ずっと黙っとこうと思てたんやけどね」 その夜、ふたりは寝るまで昔話にふけっていた。 |
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