Jamais Vu
-197-

第14章
リアル集結 II
(7)

「ふーん」
「あんまり驚いてないな」
「いや、驚いとる。そんな風には見えへんけどなあ」
「見えない奴のほうが危ないんだよ」
 ハジメは足許の苔を触りながら、話を続けた。
「バイト先の店長を刺しちまったんだ」
「殺すつもりやったんか?」
「みんなそう思ってる」
「なるほど。それで刑務所か」
「先週は職員を殴っちまって、ずっと懲罰房に放り込まれてた」
「パワーがありあまっとるんやろ」
「そんなんじゃない……そうなのかな」
「左右が入れ替わったのは、いつやった?」
「ちょうど一週間前の明け方だ。オイラが懲罰房に入れられた翌日だったな。トイレを使おうと思ったら、反対側にあったんでビックリした。職員らのイタズラかと思ったけど、そんな馬鹿な話はないし」
「明け方か。わしと同じ時刻かもしれん」
「それからは悶々と日々過ごしてた。オイラ以外の連中は、世の中が鏡の中みたいになったというのに、みんな普通に生活してる。オイラの頭だけおかしくなったんだと思ったね。だからガンガン壁に頭を打ちつけてやった。元に戻れーって願いを込めて。ほら、これがそのときの傷」
 ハジメは前髪をかきあげた。
「ほう」
「結局、脳震とう起こして医務室へ運び込まれたんだけどね。気がついたらベッドの上にいて、周囲に見える文字も全部裏返しさ。悲鳴を上げそうになったっけ。その時たまたまそばにあったネット端末を見ると、爺さん、あんたがさっき言ってた広告が映ったんだ。オイラは無我夢中で画面の文字を読んだ。何しろ読める文字だったからさ。すぐにキーボードから名前を打ち込んだ。オイラにはメールアドレスなんてないから、連絡先は刑務所にしといた。そしたら、おとつい返事が来たんだ。爺さんにも来たんだろ?」
「来た」
「オイラには広告主が救い主に思えたね。だから目眩が治まらないと嘘言って、そのままベッドから離れなかったんだ。大成功。思った通りオイラ宛の返事がその画面に現れた。救い主、いや導師はオイラに大学まで来れば助けてやると言ってくれた。うれしくてホッとしたけど、その直前、国の役人が『リアルを殺せ』なんてテレビで叫んだんで、オイラは急いで逃亡しなきゃと焦った。だから今朝、掃除当番で庭に出るなり、刑務所にさよならしたんだ」
「どうやって?」
「壁を飛び越えてさ」
 ハジメは両足を揃えると、軽くジャンプした。だが彼の身体は境内のどの木よりも高く空に舞い上がった。齋藤が見上げる中、彼が降りてくるまでにたっぷり十秒はかかった。
「お前、ホンマに人間か?」
「これも導師からもらった能力かもしれない。判らないことだらけだけど、その大学に行けばすべての秘密が解明されるらしい。だからオイラ、忍者かスパイダーマンみたいに、屋根から屋根、木から木に飛び移って、ここまで来たのさ」
「わしにも飛べるかな」
「できるんじゃないの」
 齋藤はよっこらしょと立ち上がったものの、首を横に振った。
「よしておこう。骨折したら大学まで歩けなくなる。この世情じゃタクシーも滅多につかまらんしな」
「よし、オイラがおぶって行ってやるよ」
 ハジメは背中を向けてしゃがんだ。
「やめてくれ。恥ずかしい」
「誰も見てないって。それにオイラもひとりで行くより心強いからさ」
 ハジメは背中に齋藤を背負った。
「軽いな、爺さん。それじゃ行くぞ!」
 ハジメの足が地面を蹴ると、西芳寺の境内がアッという間に沈んだ。齋藤にはそう思えた。
「うわっ、そない高う飛ばんでもええ!」

 萠黄は清香と炎少年を自分の部屋に招待し、お茶を振る舞っていた。
 とりたてていま他にすることもない。ただ転送装置の完成を待つばかりなのだ。
 伊里江はパソコンデータを整理したいと、早々に自室に戻った。
 清香と炎の話は興味深かった。元より境遇の異なる三人であるから、リアルになる前の話も、なった後のも、互いに珍しいことばかりである。話に没頭すると彼女らは時間を忘れた。
 ふわり。
 開けている窓のカーテンが風にふくらんだ。
 萠黄の髪が、ざわっと逆立った。
(──!)
 振り向くと、窓の外、はるか地上をひとり駆けていく、迷彩服の後ろ姿があった。


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