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-196- 第14章 リアル集結 II (6) |
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「カラス天狗、名を何という?」 「人間だって。──小田切ハジメ」 「ハジメか」 「元気の元と書く。……なんでオイラこんなにしゃべってんだろ? 今日はもう一年分の文字をしゃべったぞ」 「だはははは。きっと空気がいいせいだろう」 確かにふたりのいる西芳寺は、澄んだ空気に包まれている。老人は笑い、包みから取り出した握り飯をハジメに持たせた。 「今日からお前はゲンだ。元気のゲン」 「勝手に名前変えんなよ。──で、爺さんは?」 「ビッグジョーク齋藤」 「へ?」 「お新香も食え」 「違う。──そのビッグ何とかっての、名前か?」 「訊かれたから答えた」 「本名なのかっての」 「本名なら、齋藤道節という」 「じゃあそのドーセツでいいんじゃないの」 「わしゃ芸術家やぞ。硬すぎて趣味に合わんわ」 「芸術家なのか、爺さん。アーティストってやつか」 「ことさら英語で言う必要はあらへん」 「ビッグ何とかって英語じゃないか。ワケわかんね」 ビッグジョーク齋藤はお茶で握り飯を喉の奥に流し込むと、問わず語りに話し始めた。 「この山に住んで四十年。わしも年をとった。庵を結んだ頃のわしはまだ血気盛んな四十歳でな。ようやっと作品を認める奴が世の中に出てきよった。日本よりも主にアメリカやイギリスの白人どもやがな。 わしは彫刻をやっとる。木を彫んねん。昔は街中のアトリエに住んどったが、人と付き合うのがイヤになり、思い切ってたたんだ。世の中にはくだらん人間が多過ぎる。どいつもこいつもみんなくだらん。あんまりくだらんので人里離れた山間に居を構え、誰にも会わんようになったんや。 以来、最低限の人付き合いでやってきた。ネット社会やから、連絡はメールでできるし、作品の引き渡しは、指定の場所に置いとけば勝手に持っていきよる。個展もまあ信用のできる連中に任せとるんでな。 ひとつ処から動かなくなった理由は他にもある。わしは子供の頃から旅ばかりしておった。親が旅行好きだったこともあってな。高校を出るとひとりで出かけるようになり、旅、バイト、旅の繰り返しでな。……あの頃は毎日が刺激と冒険に満ちあふれていた。自分の感性に鑿を当て、音を立てて磨かれていくのが楽しくてしょうがなかった。わしは地球上に存在する三分の二の国に足跡を残してきたぞ。だはははは。 しかしまあ、旅といってもいいこと尽くめではない。旅費を稼ぐために短期バイトでその地に留まるから、人間関係と無縁ではいられなくなる。そうなると醜いものに接する機会も増える。うんざりするような目にも遭う。荷物を運ぶ仕事を手伝わされたら、実は闇ルートの武器売買で、待ち構えていた警察の包囲網を間一髪で脱出したり、言い寄ってきた女を袖にしたら、これが街の顔役の娘で、そいつの取り巻きに宿ごと火をつけられ、這々の体で逃げ延びたり。だははは。 そやからそのうち旅にも倦んだ。たいがいの場所は訪れたから、もうあとはそのコピーかバリエーションでしかない。見るべきものは十分に見てきた。 もうどこへも行かん、誰にも会わん。そうやって過ごした四十年やった」 いつしか話に引き込まれていたハジメは訊ねずにはいられなかった。 「寂しくなかったのか? 家族は?」 「家族か……。娘の節子が大阪に嫁いどるが、生まれた頃に見たきりで会ったことがない。ごくたまにメールを送ってきよるが返事も出さんわしは親として失格やな」 「人間嫌いはオイラも同じだ。くだらない連中のウダ話を聞いてると殴りたくなる」 「わしも殴ってみるか?」 「爺さんの話は面白いよ」 「そうか。まあくだらん人間の相手をしていると、自分の価値が下がるし鑑識眼も曇るからな。感性が鈍ってしまう。他人と同じものが好きで、他人が褒めた映画だけ観て、他人が美味いと言ったものだけを食う。そんな奴らにわしの作品の値打ちが判るはずもない。 三十五歳の時、わしは間違うて失敗作を個展に出してしもたことがある。なんとこれが某有名雑誌で激賞された。苦々しくもわしの名前が一躍世に出るきっかけになってしもた。そしたらどないや、会う奴会う奴が『あれは素晴らしい。傑作ですね』と言いよる。作品など観もせず、三流批評家の文章だけを鵜呑みにしてな。 ハジメよ、お前やないけど、わしはそんな愚にもつかん奴をこの拳で叩きのめしたことがある。ちょっとした事件になったな。それがわしに山ごもりを始める踏ん切りをつけさせた」 「ふぇー。爺さんもやるな」 「そん時はまだジジイやない。──齢重ねて八十年。もうこの世に観るべきものは何ひとつないとあきらめとった。ところがだ」 老人はハジメに顔を寄せた。 「ある朝、目覚めると新たな世界が広がっておった。見慣れたはずなのに新鮮な世界が。ありとあらゆるものが魅力を放ち始めたんや。ハジメよ。“デジャ・ヴュ”という言葉を知ってるか?」 「聞いたことがあるな。確か、行ったこともない場所なのに初めて来た気がしない……」 「その通りや。前世で訪問した記憶が蘇ったという解釈もあるそうや。ほんなら“ジャメ・ヴュ”は?」 「蛇の目?」 「ちゃうちゃう。ジャメ・ヴュはデジャ・ヴュの反対語や。見たことがあるのに違和感を感じるっちゅー意味や。つまり今のわしや。神さんは老い先短いわしを哀れんでくれたんか、最期にこんなプレゼントをくれはった。左と右が入れ替わっただけで、世界がこれほど魅力的に見えるとは、さすがのわしも想像がつかんかったわ」 ビッグジョーク齋藤は感極まって膝を叩いた。 「爺さん、さっきあんたも京都工大へ行くと言ったな」 「ああ、ネット広告を見てな。わしがこうなった理由が判るなんて書いとった。他にも仲間がおるとかも」 「じつはオイラもそうなんだ。左と右が入れ替わった」 齋藤は驚きの目をハジメに向けた。 「ほう。そいつは初耳や」 「いま初めて言った。だからオイラ、その大学に行く途中だったんだ。爺さんを見つけたのは」 「よう見つけたもんやな。苔の中に埋まってる、苔の生えたようなわしを」 「同じにおいがしたんでね」 ハジメは目を庭園に戻した。鹿威しのコーンという音が辺りにこだました。 「爺さん、オイラ、ニートだって言ったのは嘘だよ」 「ん?」 「本当は少年刑務所から脱走してきたんだ。オイラ、人を殺めたんだ」 |
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