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-195- 第14章 リアル集結 II (5) |
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同時刻──。 ひとりの老人があぐらをかいて座っていた。 眼前には、どこまでも緑の濃淡がうねうねと広がっている。すべて苔である。池の水がその間を縫い、木々がそこかしこに植わっている。 老人はもう二時間もじっと座ったままだ。双眸は飽きることなく風景を眺め続けている。 ようやく老人は腰を上げた。立ち去るつもりではないらしく、しばらく細い道をとぼとぼと歩いていたが、また意に沿う場所が見つかったようで、風景に目を走らせながら、ゆっくりと腰を降ろす。 「オイ、爺さん」 ふいに頭の上から声がした。老人は手をかざして空を仰ぎ見た。すると枝の上にひとりの若者がいた。 「なんや、カラス天狗か」 そう言うと、老人はまた視線を前に戻す。 「天狗じゃない。人間だ」 若者はひょいと枝を離れ、身軽に地上に降り立った。 「人間なら用はない。とっとと去ね」 老人は手の平をひらつかせ、追い払う素振りをする。 しかし若者はそんなことは気にもせず、老人に近づくと、 「朝からずっと座ってるけど、いったい何を見てるんだ?」 「あん? 庭に決まっとる。他に何がある」 「庭って、この『ナウシカ』に出てくる腐海みたいなフワフワか?」 「なう鹿?」 「知らなきゃいい」 「フワフワて、お前、これは苔やぞ」 「苔っていうのか」 「苔も知らんとは、さてはお前、都会の子やな」 「大阪生まれの大阪育ちだ」 「そのわりには、訛ってへんな」 「知らないかな。ニートっていうんだ」 「二兎?」 「ようするに、家から出たことのない人間だ。俺はテレビだけを見て育った」 「ふむ。そんな子がなんで木に登っとった?」 若者は枝を見上げた。ゆうに地上五メートルはあった。 「さあてね。木登りの才能が目覚めたんだろ」 若者はスイと水たまりでも飛び越えるように軽く跳躍した。だが次の瞬間、彼の手は十メートル先の枝にひっかかっていた。 「おい、ここは西芳寺っちゅうて、世界文化遺産にも指定されとる寺やぞ。あんまりてんごすなや」 若者は逆上がりで枝に尻を落ち着けると、含み笑いを浮かべながら老人を見おろした。老人は顔をしかめ、 「やっぱりカラス天狗や」 「違うって」 「お前、ずっとここに住んどんのか?」 「そんなわけないだろ。昨日家を出てきた。物心ついてから初めての外出だ」 「当てはあるのか?」 「目的地かい? あるよ。京都工大ってとこさ」 「あっはっは。そりゃあいい。わしもこれからそこに行くつもりだ」 「えっ!」 若者はバランスを崩し、苔の上に落ちそうになったが、どうにか体勢を立て直し、老人の横に降り立った。 若者は射るようなまなざしを老人の禿頭に注いだ。しかし喉元まで出かかった言葉を飲み込むと、 「爺さん、ここに来たのは初めてか?」 「いや、わしはこの裏山の庵に四十年間住んどって、この寺には週に二、三度は来る。そやからここはわしの庭みたいなもんや。見飽きるぐらい見てきた」 「なのに、さっきから珍しそうに見てるな」 「珍しそうに見えたか?」 「見えた」 老人は両手を頭の後ろに組んだ。 「この庭園が一夜にしてひっくり返ってしもたからな」 「ひっくり返った?」若者は前を見た。「どこがどんな風に?」 「わしの記憶にある庭園とはまったく違う。左にあった木が右にあるかと思えば、右にあった石組みが左に動いとる」 「誰かのイタズラか」 「そうやない。まるで鏡に映したように左右が入れ替わっとるんや」 「それで腹を立ててたってわけか? 馴染みの庭を変えられたから」 「ちゃうちゃう」老人は首を横に振った。「壊されたんやったら腹が立ったけどな。見慣れた風景が一夜にして見慣れぬ風景になったんやぞ。こんなおもろいことあるかい。また一から眺めて楽しめるやないか」 だははははと老人は痛快そうに笑った。 「こいつはまたエラく前向きな爺さんだな」 若者は呆れて言った。老人は笑いながら、 「なんの、左右が入れ替わったのはここだけやないぞ。わしの庵も、山や川の形も、何もかも一切合切や。こんな愉快なことがあってたまるか。だはははは」 若者はしかし笑いもせず、老人の目線まで屈むと、 「爺さん、アンタ何者?」 と訊ねた。 老人はそれに応えず、欠伸をひとつすると、どっこいしょと立ち上がり、尻の土をパンパンと払い落とした。 「もう昼時だ。わしは握り飯を持ってきとる。よかったらいっしょに食うか?」 |
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