Jamais Vu
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第14章
リアル集結 II
(4)

 驚いたはずみで、雛田はソファから床にずり落ちた。笑いを誘う転けかただったが、ギャグではないようだ。
「そそそれは、つつつまり──リアルの人間は、この世界からいなくなっちゃうってことですか?」
 野宮は得意げに頷いた。
「部品と資材が一部、未到着で困ってるんだが、明日には届くでしょう。そうすればリアルの世界へのトンネルが開通します。これができるのは世界広しと言えど、我が大学のエネルギー工学研究所だけです」
「わたしの父が!」清香が叫んだ。「父の生きている世界に帰れるんでしょうか?」
「もちろんですとも」野宮は満足そうに笑みを浮かべる。「感動の対面がトンネルの向こうで待ってますよ」
 清香は胸の前で手を合わせると、目に涙を浮かべた。

 時報が午前十一時を教えた。
 お部屋にお連れしましょうと、野宮は腰を上げた。
「炎クンに影松クン。悪いが君たちの居室はここから少し離れている。時間がないので急いで──」
「先生、わたしが案内します」
 萠黄が言うと、野宮はホッとした顔で、
「助かるよ。私は正午に会議が入ってるのでな。また口うるさい副社長のご機嫌を取らねばならん」そして残った雛田に顔を向け、「あなたはリアルじゃないので、私についてきてください」
「はあ」
 雛田は力なく返答した。

 居室のある建物──リアル館と呼ばれている──へ行く前に、炎が母親を見舞いたいと言ったので、萠黄と清香も付き合うことにした。
 三人は廊下で和久井助手を見つけると(この人はいつも必要な時に現れる)、彼女の案内で保健室へと向かった。
 母親はベッドで深い眠りについていた。診察した医者は、
「かなり無理をされたようだ。なあに、丸一日ゆっくり休めば快復されるだろう」
『よろしくお願いします』
 ボディ・ランゲージが不可能な分、炎の言葉には、母親を気遣う少年の気持ちがこもっており、医者も心を動かされたようだった。
 空には雲ひとつない。すべて吹き飛ばされたようだ。
 キャンパスを歩いていく。すれ違う作業員たちが萠黄に気がつくと、口々に声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、お仲間かい?」
「完成まであと一歩だ。待っててくれよ」
 萠黄は頭を下げてそれに応えた。
「萠黄さんは人気があるのね」
「いえ、ただわたしの立場に同情してくれてるんです」
「そんな風には見えないわね。あなたには人を惹きつけるものがあるのよ」
 萠黄は清香の言った意味が判らなかった。わたしが誰かを惹きつける?
「とんでもないです! わたしなんて万年引きこもりの、パソコンオタク少女で、高校も大学も出席率悪いし」
「そうね、まだお会いしたばかりで、わたしはあなたのことをよく知らない」
 清香は萠黄の正面にまわった。
「でも判るのよ。わたしは演奏活動を通じて、数多くのカリスマと呼ばれる人たちを見てきたから。あなたにはね萠黄さん、どこかカリスマチックなところがある」
「からかわないでください」
 萠黄は唇をゆがめ、激しく首を横に振った。
 すると横から炎が近寄り、
『僕も清香姉さんに賛成。萠黄姉さんはカリスマだあ」
「カリスマのホントの意味、知ってて言うてんの?」
 萠黄は意地悪い口調で切り返した。
『たったいま、ネット辞書で調べたよ』
 便利なベッド、いや車椅子である。
 萠黄はたまらず顔を伏せた。
「ごめんなさいね。でもからかってるんじゃなくて」
 清香がよく通る声で言った。そして彼女は、一週間前に突如として起きた左右反転現象以来、心細い日々を送ってきたことを告白した。
「駆けつけてくれたおじさまには感謝してもし足りないくらい。でも、わたしの陥った状況は、どんなに説明してもおじさまには理解してもらえない。……だからわたし、萠黄さん、あなたや炎くんに会えて本当にうれしいの。事情が判っただけでなく、同じ立場にいる仲間なんですもの」
 萠黄も同感だった。むんや久保田には申し訳ないが、境遇が同じだからこそ共有できる気持ちがある。
『元の世界に帰るのは、明日かあ』
 炎がため息混じりに言うと、萠黄は相づちを打った。
『こっちのお母さん、独りぼっちになっちゃうな』
 そのつぶやきは、萠黄に苦い感情を呼び起こした。
 ──この世界を救うため、自分たちは帰還しなければならない。本当は伊里江兄が捕まるのを見届けてからにしたいが、そんなわがままは許されそうにない。もちろん帰りたい気持ちは目いっぱいある。しかし帰るということは、こちらの世界のむんや久保田とさよならするということだ。苦労を分かち合ったヴァーチャルの友達たちと……。


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