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-187- 第13章 リアル集結 (10) |
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「私から詳細を話そう」 野宮はそう言って、萠黄にソファに座るよう促した。 その時、ドアが開いて、伊里江が到着した。かなり息を弾ませている。 「……リアルが、来たんですって?」 「おう、ちょうど良かった。いまから説明を始めるところだ」 萠黄と伊里江は、野宮と母親の両方から話が聞ける位置に着席した。野宮は語り始めた。 炎少年は三年前の交通事故で、一切の動物的反応を示すことのできない身体になってしまった。いわゆる〈植物状態〉である。 手術を担当した医者は、再び目覚める可能性は、限りなくゼロに近いと宣告した。 しかし母親は息子の復活を信じて疑わなかった。考えうる最高水準の医学的処置を施すため、あらゆる方面に手を伸ばし、救いを求めた。優秀な医者や最先端の医学研究施設があると聞けば、何をおいても訪ねていった。 息子はたびたび手術を受けた。何十回という投薬も処方され、副作用のため、髪の毛は一本残らず抜け落ちてしまった。 それでも母親は、新技術が発表されるたびに、国内外を問わず出かけて行った。そして相手を説得し、時には札束をちらつかせて、息子の救援を迫った。 無論、金が湯水のように消えていったが、母親には若くして亡くなったIT王の夫が残した莫大な遺産があった。さらに彼女は多数の優良株を保持していたので、遺産が目減りすることはなかった。 二年が経過した。 地球上のあらゆる医者が「現在の医学では回復は九十九パーセント不可能」と断言した。母親は絶望した。しかし彼女はそれでも挫けなかった。あることが暗闇の中の灯火となって彼女の心を照らしたからだ。 ある病院で脳を精密検査した時、脳波が母親の呼びかけに反応したのだ。 息子は私の声を聞いている! 五つの感覚を奪われた漆黒の中で息子は叫んでいる! 母さん、僕を助けてと! 母親は他人に頼ることを止めた。彼女は夫の遺産をすべてつぎ込むと、『炎医学研究所』を設立した。目的はもちろん息子の復活。それのみ。 既存の考えかたにとらわれない、新たな医療技術の開発に母親は全力を傾注した。金に糸目を付けず、有能な人材を世界中から引き抜き、かつ設備を充実させた。 『息子の意識を戻した者には、すべての資産を譲る』。母親はそう明言した。世界中が親子の行く末に注目した。 「──私は今日まで片時も、炎の回復を疑ったことはありません」 それでも突破口は見えない。さすがに母親は疲れ果てた。ある研究員は、いっそ炎の記憶をコンピュータに移し替えてはどうかと提案した。母親は激怒した。それでは何の解決にもならない! だがこの提案がひとつのアイデアを生んだ。解決に直結するものではないが、一歩でも前に進んでいるという感触は得られる。母親に必要なのはそれだった。 「私は、炎の脳をコンピュータに接続しました。息子に人間らしい感覚を取り戻してあげたのです」 すなわち、ビデオカメラを視覚、マイクを聴覚、タッチセンサを触覚として、外界の情報を脳に届くようにしたのだ。 初めて息子の思考が音声となってスピーカーから流れ出した時、母親は号泣した。いつもそばにいた親子の、三年ぶりの交流だった。 だが当初それは会話と呼べるものではなかった。思考があまりにも混沌としているからで、スピーカーから流れ出した声も、ほとんど意味をなさなかった。 母親は検討を重ね、PAIを導入することにした。優秀なPAIに、息子の思考をリアルタイムで処理させようと考えたのだ。 まともな会話ができるまでに三ヶ月を要した。 「母さん、ぼくのために苦労してくれてありがとう」 その声がスピーカーから流れると、母親は息子のベッドの前に膝をつき、神と亡き夫に感謝した。 息子との意思の疎通を取り戻したかったことには、他にも理由がある。事故に遭う前の炎は、父親譲りの明晰な頭脳の持ち主だった。母親はそんな彼に自らの治療法を研究させようと考えたのだ。彼ならそれも可能だと信じて。 「その日から、母と子の二人三脚が始まったのです」 息子は研究に全力を注ぐことを約束した。母親は息子の要求に応え、それまで以上に物心両面の支援をおこなった。 息子の脳に直結するコンピュータは、可能な限り小型化され、ベッドに搭載された。コンピュータは、所内外のあらゆる実験装置やデータベースに接続され、寝ながらにして研究をおこなえる万全の態勢が整えられた。 ところが、神は恐るべき試練を親子に与えた。 「勝負はこれから! と意気込んでいた矢先でした」 ある日、息子の声がスピーカーから流れてこなくなった。どうしたことかと調査した結果は、母親を愕然とさせた。 炎の身体が左右反対になっている! ワケも判らないまま、母親は脳の接続を左右反転させた。それで息子の声は復活したが、彼は驚くべきことを口にした。 「母さん! 何もかもが反対になってるよ!」 原因が何なのか、母親にも息子にも判るはずはなかった。一昨日までは。 「笹倉長官のテレビ告白で、だいたいの事情を知ることができました。と同時に、息子の命が危険に晒されるようになったのです」 その頃には、炎の身体の異変は研究所内に広まっていた。母親は誰も信じることができなかった。いつ息子の寝首を掻かれるか知れなかった。彼女は買い物に行くと称して息子を研究所から連れ出した。行くべき場所は息子が知っていた。京都だと──。 |
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