もう一時間も窓辺に腰かけている。萠黄の右足は、そのあいだずっと床をカタカタと踏み鳴らしていた。
風の強い朝である。しかしそのせいで早く目覚めたわけではない。
萠黄は窓を開けた。ピューと風切り音が耳朶を打つ。
(真崎! クソッ、イガグリ頭のとっちゃん坊やめ!)
昨夜の出来事が消えもせず頭の中に居座っているのだ。高ぶった緊張感は少しも解けず、おかげで一睡もできなかったのである。
あの後、シュウがこっそりと言った。真崎の傭兵としての能力はズバ抜けており、特に敵陣に潜入することにかけては右に出るものはないという。芝生の上に潜んで、萠黄の話を盗み聞くなど朝飯前だったのだ。
(悔しい!)
ダークな気分に同調するように、木々の枝葉が激しく揺れている。遠くに見える噴水の水も、四方八方に激しく乱れ飛んでいた。
背後で荒々しくドアがノックされた。
萠黄は立ち上がってドアに歩み寄ると、ロックを外してドアを開いた。
「ブレックファストだぜ、ハニー」
見張りは交替したので、朝食の盆を差し出したのはシュウではない。ここに来る時に見た、あの茶髪の男だ。訊いてもいないのに「トニーと呼んでくれ」と名乗った。どこから見ても日本人なのだが。
(十年前やったら、キモいと言われてそうな顔や)
萠黄は盆をひったくると、尻でドアを閉めようとした。
「おーっと」自称トニーは爪先でドアの閉まるのを止めた。「そう邪険にするなって。俺が見張り役を仰せつかったのも何かの縁だ。食事の相手をしてやるよ」
萠黄はぞっとした。
「結構です」
わざと冷たく言い放ったが、自称トニーは意に介した様子もなく、口笛を吹きながらずかずかと部屋に入ってきた。
「ひとりで食べたいんですけど」
再度言っても、相手はニヤニヤ笑いを浮かべるばかりだ。しばらく部屋を珍しそうに眺めていたが、そのうち壁にかかった鏡を見つけると、鼻歌を歌いながら髪をいじり始めた。
萠黄は自分が出て行こうと考え、ドアに歩み寄った。すると男はすっとドアと萠黄の間に立ち塞がり、
「ノー・グッド。外出はダメだよ」
そう言って、萠黄の腕をつかみ、顔を近づけてきた。そしてスーッと息を吸い込む真似をすると、
「いい香りだ。昨夜もちゃんとシャンプーしたんだね」
「放して!」
「まあ聞きなよハニー。どうせもうすぐ元の世界に戻っちゃうんだろ? だったらこっちで思い出を作っていくのも悪くないんじゃない? それに、リアルとヴァーチャルって付き合えたりするのかどうか、かなり興味ある問題だと思うんだ」
萠黄はゾッとした。腕を振って男の手を離れると、窓際へと逃げた。足が震えているのが判る。それでも勇気を奮って叫んだ。
「出て行かへんのやったら、ここから飛び降りたる! そしたら見張り役を怠ったっちゅうて、真崎のお仕置きが待ってんで!」
男は一瞬青ざめたが、すぐ不敵な笑みを浮かべ、
「隊長代理は昨夜、大津に向かったから留守だよ。それに、いざとなったら発砲してもいいと言われてるんだ。早撃ちトニーの手練の技を女の子相手に披露したくはないけどね」
男は腰の銃をホルスターの上から撫でた。
「だから、な?」
男は前に出る。萠黄は下がろうにも後がない。
肩越しに窓の外を見やる。
ここは地上五階。地面は遥か下にあった。
(何か逃げる方法は──)
目の高さで一本の枝が揺れていた。建物のすぐ脇に聳える巨木の枝だ。しかし腕を伸ばしてもつかめる距離では到底ない。それに窓からでは助走もできないから、飛び移るのは不可能に近い。
「フレンドリィになれよ、ハニー。俺って意外とジェントルマンなんだぜぇ」
(大声でエリーさんを呼ぶか!?──でもこの男が予告なく撃ったら……)
予期せぬ攻撃に対処できないのがリアルの弱点。このことはまだ誰にも知られていないはずだ。でもこの、自称『早撃ち』が本当だったら──。
「さあ」
男の手が伸びてきた。
萠黄は腹をくくった。
後ろ手に窓を大きく開き、窓枠に片足を乗せると、枝までの距離を目測した。
(一か八か)
「おい、やめろ、死ぬぞ!」
男が叫んだ時、萠黄はすでに窓枠を蹴っていた。
──ああ、飛んでしもた。見境もなく。
──わたしらしくないなぁ。
──絵に描いたような運動音痴やのに。
いろんな思いが去来した。もちろん恐怖もあった。それでも目は閉じず、両腕を伸ばして必死に枝を捉えようとした。
(あれ、枝はどこ?)
萠黄の手は空を切った。そればかりではない。
萠黄の身体は風に乗っていた。
風は少しも強くなかった。それどころか、まるで風船のように萠黄を押し包み、空中を運んでくれているのだ。
周囲を見渡す。いつまでたっても地面はずっと下にあった。
首をねじってみると、飛び出した窓は遥か後方になり、自称トニーの間の抜けた顔が小さく見えた。
スズメがそばを横切った。その羽ばたきは非常にのろかった。まるでスローモーションだった。
──これは撃たれた時と同じやんか!
自分以外のすべてが、ゆっくりとした時間の流れの中にいる。ということは、これもリアルの能力なのか?
──リアルは空も飛べる。
萠黄は両腕を左右に広げてみた。
依然として身体は空中を滑空している。
信じられない体験だが、不思議と恐怖は消えていた。
どこまで行くのだろう。
噴水の上を音もなく通過した。
何人かの迷彩服が驚きながら彼女を見上げている。
──スカートじゃなくてよかった。
やがて高度が下がり始めた。
萠黄は着地の体勢をとる。
そこはエネ研の前だった。
萠黄の足が地面に着く直前、エントランスから和久井助手が出てきた。
あまり表情を表さない和久井助手が、ゆっくりと自分に向かって降りてくる萠黄を、目と口と鼻の穴を大きく開いて凝視していた。
タッチダウン。スピードを緩める。
萠黄はどうにか転ばずにフライトを終了した。
「おはようございます」
萠黄のにこやかな挨拶に、通常の時間の流れに戻った和久井助手が応えた。
「……お、おは、おはようございます。あの、野宮先生から電話がありまして、すぐ講堂に来てほしいと──」 |